子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「モリコーネ 映画が恋した音楽家」:音楽家にとっての「羅針盤」の全貌
作品の中で,さまざまな音楽ジャンルにおいてリーダー格のポジションにいる大勢の音楽家が「エンニオ・モリコーネ」の偉大さを褒め称えるのだが,中でもジャズ・ギタリストのパット・メセニーが語った「最大の羅針盤だった」という言葉が,この作曲家の存在の大きさを顕す最も適切な献辞だったように思う。心に残る旋律。映像を補完することを越えて,物語の核へと導いていく音遣い。叙情と前衛の拮抗。「映画」という,音楽が何処まで行っても「サポート」という領域に留まることを諒解した表現様式の中で,その役割を極限まで高めることを追求し続けた至高の音楽家の姿を捉えた「モリコーネ 映画が恋した音楽家」は,音楽に留まらず「純粋」と「大衆受け」の狭間で苦悩する全てのアーティスト必見の作品だ。
マカロニ・ウェスタン(英語圏では「スパゲッティ・ウェスタン」)から始まり「ヘイトフル・エイト」という,西部劇に対するタランティーノ流のレクイエムのような作品で遂にオスカーに輝くまでの長いキャリアを,モリコーネ本人が各作品のテーマ曲のメロディを口ずさみながら語り尽くす。何年か前に出された自伝「エンリオ・モリコーネ,自身を語る」を読んでいた私にとっては,その映像版とも言える内容に欣喜雀躍しっぱなしの157分間だった。
クラシックの作曲家として世に出るべく修行していたモリコーネが,目をかけてくれていた師匠の期待を意識して何度も「あと10年だけ」という制限を自らに課し続ける中で「生計を立てる手段」であるはずの映画音楽の中に純粋音楽の要素を持ち込むことによって,映画音楽のスタンダードを書き換え続けてきた歴史を再現する展開は,まさに圧巻。
ここにそんな楽器?そこでこの旋律?作品の指揮者である映画監督とモリコーネの間で幾度となく繰り広げられたバトルが作品の質を高め,やがては監督の意図を超越したレヴェルにまで到達させるモリコーネの才能が,セルジオ・レオーネからデ・パルマ,ベルトルッチに至る世界の数多くの名匠と共振していく様子は,映画音楽が発展してきた歴史そのもの,と言っても過言ではないだろう。
一方で,やはりモリコーネとのコラボを幾つも手掛けてきたジュゼッペ・トルナトーレがメガホンを取っている作品自体の出来は,ドキュメンタリーとして求められる節度やつつましさを無視したトルナトーレ流「やり過ぎ」が裏目に出てしまっている。モリコーネ本人の控えめな人間性(恐らく)と真逆の,コテコテ賛辞連発の終盤の失速で★ひとつ減点。残るはスピルバーグによる「ジョン・ウィリアムス」だな。
★★★
(★★★★★が最高)
マカロニ・ウェスタン(英語圏では「スパゲッティ・ウェスタン」)から始まり「ヘイトフル・エイト」という,西部劇に対するタランティーノ流のレクイエムのような作品で遂にオスカーに輝くまでの長いキャリアを,モリコーネ本人が各作品のテーマ曲のメロディを口ずさみながら語り尽くす。何年か前に出された自伝「エンリオ・モリコーネ,自身を語る」を読んでいた私にとっては,その映像版とも言える内容に欣喜雀躍しっぱなしの157分間だった。
クラシックの作曲家として世に出るべく修行していたモリコーネが,目をかけてくれていた師匠の期待を意識して何度も「あと10年だけ」という制限を自らに課し続ける中で「生計を立てる手段」であるはずの映画音楽の中に純粋音楽の要素を持ち込むことによって,映画音楽のスタンダードを書き換え続けてきた歴史を再現する展開は,まさに圧巻。
ここにそんな楽器?そこでこの旋律?作品の指揮者である映画監督とモリコーネの間で幾度となく繰り広げられたバトルが作品の質を高め,やがては監督の意図を超越したレヴェルにまで到達させるモリコーネの才能が,セルジオ・レオーネからデ・パルマ,ベルトルッチに至る世界の数多くの名匠と共振していく様子は,映画音楽が発展してきた歴史そのもの,と言っても過言ではないだろう。
一方で,やはりモリコーネとのコラボを幾つも手掛けてきたジュゼッペ・トルナトーレがメガホンを取っている作品自体の出来は,ドキュメンタリーとして求められる節度やつつましさを無視したトルナトーレ流「やり過ぎ」が裏目に出てしまっている。モリコーネ本人の控えめな人間性(恐らく)と真逆の,コテコテ賛辞連発の終盤の失速で★ひとつ減点。残るはスピルバーグによる「ジョン・ウィリアムス」だな。
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