子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「パリ20区,僕たちのクラス」:「僕たちの」という形容詞が逆説的に突き刺さる

2010年09月26日 00時04分54秒 | 映画(新作レヴュー)
ジュンク堂で書店員として活躍されているエッセイスト,田口久美子さんが書いた「書店繁盛記」の中に,新規開店に向けて棚を作り上げていく作業が詳細に描かれた章がある。専門書に強いと定評のある同書店の看板を背負い,新しい店もそんな伝統を守りながら,競合他店に負けない書店とするべく,他店を偵察し,取次店と渡り合い,段ボールと格闘しながら棚を埋めていく様子は,書籍業界に疎い私にとっても実に興味深いものだった。だがその章は「開店の日,私が(中略)聞かれた最初の本は『世界の中心で,愛を叫ぶ』であった」という見事な「脱力オチ」で締め括られる。
ドキュメンタリーと見紛うばかりの迫真の対話が128分間に亘って繰り広げられる「パリ20区,僕たちのクラス」のラストは,まるでその時の田口氏に捧げられたかのような,リアルな脱力感に満ちている。誰もいなくなった教室に雑然と放り出されたような机と椅子は,我々が暮らす世界の象徴として,深く鈍い光を放っている。

パリにある公立学校の,日本にあてはめると中学2~3年生辺りに該当すると思われるとある教室の国語授業を,1年間に亘って追いかけたドラマだ。脚本のある完全なフィクションでありながら,カメラが捉える教師と生徒のやり取りと自然な演技は即興としか思えず,そこから立ち上ってくる緊張感に溢れた空気は,観客を金縛りにする。

教師のフランソワ(フランソワ・ベゴドー,共同で脚本も担当)が,生徒にとって良かれと思って発した言葉は,それを受け取る生徒の感情や民族や家庭の環境などの違いによって,思いもよらない方向に跳ね返され,幾つもの屈折を経て,最後に教師に戻ってくる。その反射の仕方に法則はなく,従って経験は殆ど役に立たない。劇中で,他の教師が職員室で生徒のことを罵倒し,自暴自棄になるシーンがあるが,同僚はただ「外に出よう」と言う他に,適切な言葉を持たないのが実に印象的だ。

疑似ドキュメンタリー的なディスカッション・ドラマということで言えば,ブタの処遇をめぐって小学生が白熱の議論を繰り広げ,新鮮な驚きをもたらした前田哲の秀作「ブタがいた教室」が思い出されるが,形式は瓜二つにも拘わらず,二つの作品が立っている場所は全く異なる。
議論の後に子供たちの成長を実感させる充実感に満ちていた「ブタがいた教室」が,あくまで「学校教育」を扱って,そこで繰り広げられる議論は「実社会のシミュレーション」という位置付けだったのに対して,本作は徹底して「学校そのものが実社会」という視点で描かれる。だから,工夫した授業も職員会議も何かをもたらすことはなく,果てしない議論の後に待っているのは,成長でも,納得でも,理解でもなく,危険で膨大でリアルな「実社会」を生きるための武器を,という生徒の悲痛な叫びだけだ。ラストも含めて何度か描かれるサッカーのシークエンスには,それでも我々は共存しながら生きていかなければならない,という重いメッセージが込められているようで,実に苦い。
★★★★☆
(★★★★★が最高)


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