子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「戦場でワルツを」:「バシールって誰だ?」という台詞は重かったのだが

2009年12月20日 23時51分36秒 | 映画(新作レヴュー)
ここ数年は1年に70本くらいのペースで映画を観ているのだが,年に何本かは必ずこういう作品に出会う。それはどんな作品かというと,作品を世に問う制作者の思いは理解し,思いが持つ熱はしかと受け止めつつも,「映画」という表現様式に対する考えや姿勢が,どうしても私のそれとは異なる作品のことだ。

この作品に込められた作者の思いは,圧倒的に真摯で熱い。だが,戦争が人間をどう変え,何をさせるのかを,具体的かつ普遍的な思考で突き詰めていくアリ・フォルマン監督のアプローチは,あくまで静かでクールだ。
20年以上前の出来事について,実際に作者が関わった人間にインタビューして実態を解き明かしていくという手法は,相手の人間が(無意識にでも)過去を粉飾しようとした場合には,真実から乖離していく危険をも孕んでいる。そんな手法を敢えて選び取りながら,表現形式に「アニメーション」を採用することによって,作者の記憶が中間領域を行きつ戻りつする様はかえってリアルに再現され,当時の少年兵が行った事実に徐々に近付いていく過程は実にスリリングだ。

しかしラストで,大量虐殺を記録した実写フィルムがスクリーンに映し出された瞬間,そこまで抑制的な表現を積み重ねてきた努力と目論見は一瞬にして灰燼に帰してしまったという,映像の持つ衝撃とは別の驚きを受けたことも事実だ。その驚きとは,結局あの凄惨な映像を実写で映し出すのならば,「アニメーション」という表現形式が,ひょっとすると改ざんされたものかもしれない証言に,物語を語る上での信憑性を持たせるためだけに採用されたのではないか,という強い印象の下に生まれたものだ。

実際,アニメーションが持つ「飛翔する想像力」という特性を最も強く発揮しているのは,野犬が市中を疾走する,という冒頭の夢の場面であり,実際のインタビューを,作者の目の前にいる語り手の姿と彼らの話から連想される出来事を繋げて再現していく,それ以降の抑制的な表現とのギャップは明白だ。
そしてそのギャップは,「アニメーション」という表現形式に対する作者の姿勢への懐疑にまで発展してしまった,というのが正直な私の感想だ。

ラストの映像が,アニメーションが得意とする「飛翔する想像力」を別の方向に用いた,全く異なる表現だったら,こんな印象は受けなかったとは思う。だが戦争の残虐性,非人間性を記録映像で見せるという選択をした作者に対しては(大変心苦しくはあるのだが),娯楽映画という体裁を取りつつ,「戦場でワルツを」に負けない過激な反戦思想を爆発させた「イングロリアス・バスターズ」の方に,私は軍配を上げたい。アリ・フォルマンさん,すいません。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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