子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「スピード・レーサー」:暴走する極彩色の世界観

2008年07月16日 23時11分34秒 | 映画(新作レヴュー)
冒頭の「2001年宇宙の旅」で船長が経験するトリップのような色で彩られたワーナー・ブラザーズのマークから,スーザン・サランドンの絶叫で締め括られるラストに到るまで,ウォシャウスキー兄弟が最新のCGを使って現出させようとしたヴィジョンは揺らぐことがない。評論家筋の不評も,日米に共通した不入りも,なんのその。画面から伝わる「私はこれがやりたかったのだ」という意思表明は明確であり,そのラジカルな姿勢はある種の爽快さをも感じさせる。

ストーリーはシンプル,と言うよりも,単純至極という表現があてはまる。兄か他人か,敵か味方か,という,物語の展開上は一応ミステリアスな存在のミスターXも,結局は紋切り型の盛り上げ役に終始する。
レース場面も,スピード感覚を追求するというよりも,背景とマシンとレーサーと実況アナウンサーを含む観客席とが渾然となって,現代の妖怪たるグローバリズムとは全く位相を異にした,1960年代のキッチュなヴィジョンを現出させることを目的として,細かいカットが疾走する。

そう,正にこの万国博覧会的世界観をスクリーン上で具体化させることこそが,この作品の栄えある使命であり,その点でウォシャウスキー兄弟は,マイケル・チミノの「天国の門」にも似たゲートを,トップでゴールすることに成功したように見える。
勿論その使命の成就のために欠かせないオリジナル・アニメのテーマ曲は劇中,アレンジを替えて何度も使われ,エンド・クレジットではオリジナルの日本語が高らかに鳴り響く。既に鬼籍に入られた吉田竜夫先生も,「GO,GO,GO!」と三唱されているかも知れない。

馬鹿馬鹿しい,という一言で,一刀両断に切って捨てることも可能ならば,1960年代へのノスタルジーと来るべき未来のヴィジョンを,目にも鮮やかな蛍光色で紡ぎ合わせた力業と賞賛する声が,あちこちから立ち上ってきてもおかしくない出来上がりだが,日本で目にする批評の殆どが前者のトーンなのは,残念だ。
ただ「マトリックス」シリーズの終幕で迷い込んだ形而上学的な森を抜けたら,そこは「F-ZERO」(任天堂スーパーファミコンのレースゲーム)のサーキットだった,というオチを支持する層が,世界中どこでもそう厚くはないことは,さすがの私でも分かる。オリジナル・アニメの発祥地であるこの日本でも,本来ターゲットとしたかったはずの10代~20代に完全にそっぽを向かれたようで,公開2週目の日曜日にも拘わらず,ユナイテッドシネマ札幌の客席には20人ほどの観客しかいなかった。

そんな興行的な躓きによって,この類い希なるヴィジョンにブレーキが掛かることがないことを,スピード・レーサーのゴール寸前で捧げられた家族の祈りにも似た気持ちで,私も祈ることにしたい。


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