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映画「落語物語」:柳家小三治激賞の落語もの。「ウソがねえ」と傑作になったのか?

落語ものの映画作品と言えば,最近では平山秀幸の「しゃべれども しゃべれども」が思い浮かぶ。伊東四朗と国分太一の師弟関係,更には国分と八千草薫による孫と祖母のやり取りが醸し出す,何とも柔らかくゆったりとした空気が印象に残る秀作だった。
だが,どうやらそれは本家の噺家から見ると「こうじゃない」という気持ちにさせるようなものだったらしい。
そんな「落語家」ものに飽きたらなかった本職の林家しん平が,自らメガホンを取ったのが,ピエール瀧と田畑智子が少し若めの師匠夫婦を演じる「落語物語」だ。

試写でこれを観た柳家小三治が「空気のつくりかたがほかとはまったくちがう。空気が,噺家の空気なんだ」と賞めたと,劇場発行のリーフレットに書かれていたが,劇中に幾つも出てくる細かなエピソード(田畑智子演じるおかみさんが作る朝食や,住み込みの弟子ならではの「洗濯物取り込み事件」等々)には,確かに本職だけが描き得たのであろう独特のリアリティがある。
寄席の楽屋における噺家同士の微妙な距離感や,常連客との駆け引きにも,案外舞台裏はこんな感じなんだろうなと思わせるような騒々しい楽しさがあって,退屈させない。

だが,映画作品としての「しゃべれども~」と「落語物語」を比較すると,やはり作り手としての「本職」が作った前者が,語りの巧さで本作を圧倒しているという感想を持った。
2作品の違いは,2時間前後という限られた時間の中で,落語という日本独自の芸能を通して「人間」を語るため,何を捨て何を描かなければならないかという選択が,撮影技法も含めて的確に為されているかどうかという点に,顕著に現れている。

その代表的な例が,両作における「噺」の扱いだ。師匠であるピエール瀧にも,弟子の小春(柳家わさび)にも,ほんの数行しか演目を喋らせない「落語物語」に対して,「しゃべれども~」では師匠の伊東四朗にも弟子の国分太一や香里奈にもしっかりと一演目をやらせていた。役者の技術の巧拙はともかく,少なくともそれをきちんと撮る(聴かせる)ことによって「やっぱり噺家の話術は作り上げられた技術なんだ」ということがしっかりと観客に伝わり,それが物語の芯を形成していた。
一方の「落語物語」のクライマックスには,亡くなったおかみさんが二階席から見守る中,小春が急遽トリを勤めるというシチュエーションが用意されているのだが,肝心の噺はほんのさわりだけで終わってしまうため,これではおかみさんも安心して成仏できないのではないかという感じが座布団の上に残ったまま幕が下りてしまうのだ。

年間の邦画鑑賞本数が20本に満たない私には,今の日本映画界を支える技術陣が,外からの監督流入を受け容れる体勢を持ち得るのかどうかという論議に加わる資格はないのだが,少なくともオチのない噺を作る余裕がないことだけは確かだろう。残念ながら私には「本物」らしい空気に感じ入ることは出来ず,田畑智子の巧さだけが孤立している,という印象しか持てなかった。
★★
(★★★★★が最高)
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