小説家である主人公が,小説好きなビルの清掃婦に尋ねる。「どうして小説を読むんだい?」。するとその清掃婦が答える。「そんなの決まってるじゃない。その先がどうなるか知りたいからよ」。
今から25年くらい前,今はなきサンリオ出版から出たジョン・アーヴィングの「ガープの世界」にあったやり取りは,確かこんな風だったはずだ。自信はないけれど。
細かな描写はともかく,こんなたわいのない場面を憶えているのは,私自身が小説を読む一番の理由が,当時も今も正にそうだった(である)からに他ならない。
そしてそれは,現在私が粛々とTVドラマウォッチャーを続けている理由にも重なる。スティーブン・キングがディケンズに倣って「グリーン・マイル」を小さな章に分けて,毎週出し続けたことに拘ったことも,次元は全然異なるが,根っこは同じような気がする。つまり「物語」というものは,次の章が語られることを読者から「待たれる」ことによって,初めて形になる「相互作用」のことなのだ。多分。
そういう観点で見ると,坂元裕二が書いたTVドラマ「わたしたちの教科書」は,翌週の展開を心待ちにする視聴者(少なくとも私はその一人だった)にとって,見事な「物語」として成立していた。
いじめを受けていたらしい女子中学生の死から始まり,それを止められなかった教師と訳ありの弁護士の前に立ちはだかる厳格な教頭。誰もが暗い過去を抱え,不完全を自覚しつつ,よろけながら,必死に目の前の人生を生きていた。学校の秘密と登場人物の過去と死の真相が,徐々に明らかになっていくにつれて,物語の中心に偽善,勇気,過ち,贖罪といったテーマが浮かび上がってくる様は,TVドラマというジャンルでは簡単に括れないほどに豊かな映像世界を作り上げていた。
学校という閉鎖空間を舞台に,そんな見事な仕事を展開してみせた脚本家が,再び学園ものに挑むと聞けば,期待は嫌が応にも高まるというものだ。ましてや,尻すぼみに平板なお話と化してしまった「CHANGE」の後番組とあればなおさら,立体的な人物造形によって視聴者を揺さぶり,一日千秋の思いで来週の展開を予想させる日々の再来を願わずにはいられなかった。
しかし,そんな期待はものの見事に裏切られてしまった。しかも,たった3回で。
進学校にやってきた「型破り」な教師が,受験に囚われることなく貴重な青春を楽しめ,と鼓舞する。教師という職業に情熱を見出せないでいた教師も,あくまで一流大学への入学に至上の価値を置く生徒達も,最初は彼のことを胡散臭く感じて距離を置こうとするが,次第に「型破り」教師の魅力に気付いて変わり始めていく…。
啞然とするしかない。何という「型通り」の,「型破り」な教師を主役とする,学園ドラマなのだろう。プロットだけをなぞれば,にわかには「わたしたちの教科書」と同一の脚本家の仕事だとは,誰も信じないだろう。しかし,そうなのだ。残念ながら。
エリート商社マンだった主役の教師(織田裕二)には,進路を変えるに到った海外での経験があり,学校には公表したくない秘密があるらしい,ということは仄めかされる。しかしそうした要素は,「物語」の表面的な進行にはコミットするかもしれないが,「物語」を成立させるために欠かせない登場人物のゆらぎとは,はるかに離れたところで鎮座させられているだけのように見える。
そして何より「物語」が弾む気配を見せない理由は,ドラマが回を重ねていく過程で,主人公が悩み,揺れ,その結果として変わっていく(かもしれない)兆候が微塵もない,という点だ。挫折を経験し,生徒の気持ちを理解し,独特のアプローチで真実の道を示し続ける「型破りな」教師の造型は,何十年も昔から続いてきた「教師が生徒を教え導く」という一方通行のやり取りを一歩も超えるものではなく,同枠の前作「CHANGE」の朝倉総理と同程度に,「型通り」で視聴者の予想を超えないレヴェルに留まってしまっている。これは致命的と言っても良いだろう。
ただ流石に月9。若手の役者は旬なところをズバリと抑えている。もう既にブレイクしてしまったと見なされているであろう北乃きいや谷村美月(もう一人の秀才役,冨浦智嗣と一緒に「わたしたちの教科書」にも出演していた)に加えて,「蛇とピアス」の吉高由里子,「天然コケッコー」の岡田将生など,映画界期待の星もずらりと顔を揃えている。これだけ並べても,今はまだ出演料は安いのだろうが,映画及びドラマ愛好家にとっては「次代を占う」という意味で,垂涎のキャストだ。
俳優の力だけで,陳腐な設定に息を吹き込むことは難しいとは思うが,この中では既に姉貴分となってしまった「モップガール」北川景子の号令の下,何とか立て直してくれないものか,と願いつつ,吉瀬美智子(教師役)のタイトスカート姿を目当てにチャンネルを合わせる中年がここに一人。あぁ,情けない。
今から25年くらい前,今はなきサンリオ出版から出たジョン・アーヴィングの「ガープの世界」にあったやり取りは,確かこんな風だったはずだ。自信はないけれど。
細かな描写はともかく,こんなたわいのない場面を憶えているのは,私自身が小説を読む一番の理由が,当時も今も正にそうだった(である)からに他ならない。
そしてそれは,現在私が粛々とTVドラマウォッチャーを続けている理由にも重なる。スティーブン・キングがディケンズに倣って「グリーン・マイル」を小さな章に分けて,毎週出し続けたことに拘ったことも,次元は全然異なるが,根っこは同じような気がする。つまり「物語」というものは,次の章が語られることを読者から「待たれる」ことによって,初めて形になる「相互作用」のことなのだ。多分。
そういう観点で見ると,坂元裕二が書いたTVドラマ「わたしたちの教科書」は,翌週の展開を心待ちにする視聴者(少なくとも私はその一人だった)にとって,見事な「物語」として成立していた。
いじめを受けていたらしい女子中学生の死から始まり,それを止められなかった教師と訳ありの弁護士の前に立ちはだかる厳格な教頭。誰もが暗い過去を抱え,不完全を自覚しつつ,よろけながら,必死に目の前の人生を生きていた。学校の秘密と登場人物の過去と死の真相が,徐々に明らかになっていくにつれて,物語の中心に偽善,勇気,過ち,贖罪といったテーマが浮かび上がってくる様は,TVドラマというジャンルでは簡単に括れないほどに豊かな映像世界を作り上げていた。
学校という閉鎖空間を舞台に,そんな見事な仕事を展開してみせた脚本家が,再び学園ものに挑むと聞けば,期待は嫌が応にも高まるというものだ。ましてや,尻すぼみに平板なお話と化してしまった「CHANGE」の後番組とあればなおさら,立体的な人物造形によって視聴者を揺さぶり,一日千秋の思いで来週の展開を予想させる日々の再来を願わずにはいられなかった。
しかし,そんな期待はものの見事に裏切られてしまった。しかも,たった3回で。
進学校にやってきた「型破り」な教師が,受験に囚われることなく貴重な青春を楽しめ,と鼓舞する。教師という職業に情熱を見出せないでいた教師も,あくまで一流大学への入学に至上の価値を置く生徒達も,最初は彼のことを胡散臭く感じて距離を置こうとするが,次第に「型破り」教師の魅力に気付いて変わり始めていく…。
啞然とするしかない。何という「型通り」の,「型破り」な教師を主役とする,学園ドラマなのだろう。プロットだけをなぞれば,にわかには「わたしたちの教科書」と同一の脚本家の仕事だとは,誰も信じないだろう。しかし,そうなのだ。残念ながら。
エリート商社マンだった主役の教師(織田裕二)には,進路を変えるに到った海外での経験があり,学校には公表したくない秘密があるらしい,ということは仄めかされる。しかしそうした要素は,「物語」の表面的な進行にはコミットするかもしれないが,「物語」を成立させるために欠かせない登場人物のゆらぎとは,はるかに離れたところで鎮座させられているだけのように見える。
そして何より「物語」が弾む気配を見せない理由は,ドラマが回を重ねていく過程で,主人公が悩み,揺れ,その結果として変わっていく(かもしれない)兆候が微塵もない,という点だ。挫折を経験し,生徒の気持ちを理解し,独特のアプローチで真実の道を示し続ける「型破りな」教師の造型は,何十年も昔から続いてきた「教師が生徒を教え導く」という一方通行のやり取りを一歩も超えるものではなく,同枠の前作「CHANGE」の朝倉総理と同程度に,「型通り」で視聴者の予想を超えないレヴェルに留まってしまっている。これは致命的と言っても良いだろう。
ただ流石に月9。若手の役者は旬なところをズバリと抑えている。もう既にブレイクしてしまったと見なされているであろう北乃きいや谷村美月(もう一人の秀才役,冨浦智嗣と一緒に「わたしたちの教科書」にも出演していた)に加えて,「蛇とピアス」の吉高由里子,「天然コケッコー」の岡田将生など,映画界期待の星もずらりと顔を揃えている。これだけ並べても,今はまだ出演料は安いのだろうが,映画及びドラマ愛好家にとっては「次代を占う」という意味で,垂涎のキャストだ。
俳優の力だけで,陳腐な設定に息を吹き込むことは難しいとは思うが,この中では既に姉貴分となってしまった「モップガール」北川景子の号令の下,何とか立て直してくれないものか,と願いつつ,吉瀬美智子(教師役)のタイトスカート姿を目当てにチャンネルを合わせる中年がここに一人。あぁ,情けない。