子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「崖の上のポニョ」:「動画」の持つ力を押し広げようとする執念の結晶

2008年08月10日 15時13分28秒 | 映画(新作レヴュー)
凄い。宗介のもとへ戻る決心をしたポニョが,うねる大波と化した妹たちの頭に載って,全力で疾駆するショットには,文字通り言葉を失ってしまうくらいの迫力が宿っている。海という,人間が想像出来るスケールを超えた大きさと,生命の源である神々しさを持った存在を,ここまでの美しさと迫力で描いた作品を,他に知らない。
ここに息づいている果敢なチャレンジ精神を前にすれば,新作が出る度に言われてきた「最高傑作」という冠など,もはや意味を成さないだろう。宮崎駿は,間違いなく前に進んでいる。

一見単純な物語でありながら,細部におけるややこしい設定や,話の飛躍は,いつものとおり。
どうも昔は人間だったらしいポニョのお父さんや,伸縮自在の海の女神のようなお母さんに関する説明は全くない。何故姉であるポニョが一人だけで,妹たち(声はなんと矢野顕子だ)は無数にいるのか,何故月の接近による水位上昇が起こったのか,何故嵐の後に古代の水棲生物が現れたのか,どうして宗介のお母さんはポニョの存在を全く無条件で受け容れてしまったのか,宗介のお父さんの声が何故長嶋一茂でなければならなかったのか,あっ,これは種類が違うか。

これらの疑問に対する回答は,これもまたいつものとおり,一部を除いて殆ど省略(無視?)される。しかし,宗介のお母さんのスリリングな運転や,透明な水面下を泳ぎ回る古代生物の優美な姿,そして眠りに落ちる寸前のポニョの表情に見惚れている内に,観客の頭で回っていた金属製のロジックのギアは,いつの間にか木製の柔らかな歯車に変わり,それらの辻褄はポンポン蒸気船の蝋燭のように溶けてしまうのだ。

冒頭に記したポニョが海上を疾走する姿は,そうしたストーリーに関するあれこれを超越したところで,「未来少年コナン」以来一貫して宮崎アニメのモチーフとなってきた「目標に向かって一心不乱に頑張る子供」を体現して,観客の心にダイレクトに飛び込んでくる。
迷わないという意味では,ハムを頬張るポニョも,お父さんの帽子を誇らしげに被る宗介も,まるでロン・ハワードの「コクーン」の老人たちのように,嵐の到来によって車椅子から立ち上がる老婦人たちも,みな同じだ。生を謳歌したいと望む心こそが,漂流物に汚れた海と共存して生きていく唯一の方法だと,彼らは静かに語りかける。

言葉では表現しきれないものだからこそ,絵にする,ということがアニメーション制作の原点だとすれば,ここに存在するのは正に絵を動かすことの純粋な歓びと,絵の連なりから生まれる動きが,制作者の意図を超えて観るものの心にもたらすであろうイメージの拡がりそのものだ。清新な思いを尊ぶ心と,それを形にすべく費やされた汗の結晶。それに出会う機会を与えられた日本の子供たち(と大人たち)にとって,この夏は格別なものになったはずだ。


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