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映画「コロンバス」:画面の奥で輝く赤いやかん

2020年08月08日 10時09分03秒 | 映画(新作レヴュー)
6月に美術館連絡協議会と読賣新聞が立ち上げたウェブサイト「美術館女子」が,そのコンセプトを巡って論争が起き,結局閉鎖に至った,という顛末が読賣以外の紙面をも賑わせる事態となった。「美術手帖」の記事には,女子という言葉にジェンダー・バランスを欠いた意識が顕著,無知な観客の役割を女性に負わせている,等の分析が載っていたが,鉄道や歴史に興味を持つ女性がそのことだけで過剰に持ち上げられ,「女子」というバッジを装着されることで即座にパッケージ化されてしまう昨今,それまで男性のものと思われていた領域に純粋な好奇心だけをコンパスにして分け入っていこうとする女性にとっては,却って受難の時代なのかもしれない。
そんな状況下で観た,韓国ソウル生まれのアメリカ人コゴナダの長編デビュー作「コロンバス」は,日本における一連の喧噪を軽々と飛び越えて,美しい詩を奏でてみせる,驚きに満ちた秀作だ。

コロンバスという町が,ミラー邸をはじめとするモダニズム建築の宝庫,という話は聞いたことがあったが,劇中語られる建築家の名前にはほとんど聞き覚えがなかった。けれども昨今数多作られている美術館ドキュメンタリーとは違ったアプローチで次々と画面に現れる「左右非対称なのに安定感のある」建物が醸し出す空気感が,小津の構図を知り尽くしたコゴナダ監督が作り出す21世紀の「厚田雄春」ルックの画面が見事に捉えている。

コロンバスの図書館で働くケイシー(ヘイリー・ルー=リチャードソン)が,建築学者の父を見舞いに訪れた韓国系アメリカ人のジンと出会い,彼に背中を押されてコロンバスを出て行くまでを描く,小さな「物語」であるところは,小津作品と共通すると言えるかもしれない。だが卓袱台を挟んで座る親娘の会話を,独特のリズムで繋ぐことによって,互いの心情の往き来を紡ぎ出していた小津作品との違いは,「コロンバス」の会話が主に二人が同じ方向を向き,同じ建物を観ながら交わすやり取りが多くを占めているところだろう。ケイシーとジンの前に存在する古くて新しい建物が,静謐かつ雄弁に空間を切り取る様が,各々にとっての新しい世界からの招待状のように,落ち着いた輝きを放つのを眺めるのは,実に贅沢な経験だ。

ケイシーがキッチンでお湯を沸かすやかんの色は,「赤の発色が良いから」という理由でアグファのフィルムを使い続けた師匠へのリスペクトの現れだろう。小津の盟友である「野田髙悟」から名前を取ったというコゴナダ監督の見事なデビュー作だ。
★★★★
(★★★★★が最高)


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