COVID-19禍で公開が延期されていた大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館 キネマの玉手箱」がようやく公開された。長く病を患っていた監督が,本来の公開予定日に亡くなった,というニュースを聞いて,自分の誕生日に亡くなった小津安二郎を想起させるような律儀なエンドマークの付け方だと思ったのだが,この長尺の遺作もまた,どのショットを取っても大林ブランド印だらけの見事な遺書となっていた。「キネマの玉手箱」というサブ・タイトルに偽りなしだ。
戦争映画のオールナイト上映をもって閉館するという海辺の映画館に,大勢の人々が集まってくる。そこで上映される映画に出演している女の子が,スクリーンの中から「私を助けて」というメッセージを発し,それに応えた三人の男がスクリーンの中に飛び込むことで,時空を超えた数々の「戦争」を巡る旅が始まる。
戊辰戦争から太平洋戦争まで,大林作品に出演してきた大勢の役者たちが,戦争に巻き込まれ,翻弄される人々を演じるうちに,徐々に物語はクライマックスとなる広島の原爆投下へと近付いていく。移動演劇団「桜隊」のメンバーとなった彼らは,役者たちを救うことが出来るのか。
ありとあらゆるショットに,商業映画デビューとなった「HOUSEハウス」以来,大林監督の代名詞となったアナログなオプチカル処理が施され,良い意味での「チープな異次元感」が横溢している。端から物語の辻褄は無視され,整合感などお構いなしに,次から次へと登場してくる人物は皆歌い,性交し,首をはねられていく。戦争への怒りはむき出しで,触ると火傷をしそうな程熱いのだが,膨大の台詞のあちこちに笑いがちりばめられることで,観客は肩の力を抜いたまま,スクリーンを凝視し続けることが出来るのだ。
大林作品を語る上で絶対に欠かせない要素なのに,何故かあまり人々が触れ(たがら)ない要素のひとつに,初期作品から女優を「脱がせる」ことが挙げられる。当時角川事務所からの独立運動にまで発展して話題を呼んだ原田貴和子から鷲尾いさ子まで,旬の女優のヌードに拘った大林監督の監督魂は,遺作でも成海璃子を脱がせることに成功する。残念ながらそこでもオプティカル処理が施されてしまい,見事な肢体をそのまま観ることは叶わないのだが,そこに息づく生命力は,愛の交歓を前面に打ち出した「RED」を遥かに凌駕している。最後まで枯れることがなかった「カツドウ屋根性」に敬服する179分。
★★★★
(★★★★★が最高)
戦争映画のオールナイト上映をもって閉館するという海辺の映画館に,大勢の人々が集まってくる。そこで上映される映画に出演している女の子が,スクリーンの中から「私を助けて」というメッセージを発し,それに応えた三人の男がスクリーンの中に飛び込むことで,時空を超えた数々の「戦争」を巡る旅が始まる。
戊辰戦争から太平洋戦争まで,大林作品に出演してきた大勢の役者たちが,戦争に巻き込まれ,翻弄される人々を演じるうちに,徐々に物語はクライマックスとなる広島の原爆投下へと近付いていく。移動演劇団「桜隊」のメンバーとなった彼らは,役者たちを救うことが出来るのか。
ありとあらゆるショットに,商業映画デビューとなった「HOUSEハウス」以来,大林監督の代名詞となったアナログなオプチカル処理が施され,良い意味での「チープな異次元感」が横溢している。端から物語の辻褄は無視され,整合感などお構いなしに,次から次へと登場してくる人物は皆歌い,性交し,首をはねられていく。戦争への怒りはむき出しで,触ると火傷をしそうな程熱いのだが,膨大の台詞のあちこちに笑いがちりばめられることで,観客は肩の力を抜いたまま,スクリーンを凝視し続けることが出来るのだ。
大林作品を語る上で絶対に欠かせない要素なのに,何故かあまり人々が触れ(たがら)ない要素のひとつに,初期作品から女優を「脱がせる」ことが挙げられる。当時角川事務所からの独立運動にまで発展して話題を呼んだ原田貴和子から鷲尾いさ子まで,旬の女優のヌードに拘った大林監督の監督魂は,遺作でも成海璃子を脱がせることに成功する。残念ながらそこでもオプティカル処理が施されてしまい,見事な肢体をそのまま観ることは叶わないのだが,そこに息づく生命力は,愛の交歓を前面に打ち出した「RED」を遥かに凌駕している。最後まで枯れることがなかった「カツドウ屋根性」に敬服する179分。
★★★★
(★★★★★が最高)