子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「止められるか,俺たちを」:「方向」を持たない熱いベクトル

2018年11月10日 19時41分39秒 | 映画(新作レヴュー)
助監督を志望して,過激なピンク映画の制作プロダクションの門を叩くおかっぱ頭の女の子。今を時めく門脇麦の選球眼は,イニエスタの浮き球のスルーパスくらいの正確さを持っている。行動の人,若松孝二とその周辺にたむろしていた若者たちを,弟子の白石和彌が愛を込めて描いた作品のヒロインに,今彼女ほど相応しい女優はいないだろう。現場を走り廻り,酒を呷り,まるで命を削るような勢いでシナリオを書き,やがて挫折を味わい,破滅へと向かって落ちていく。60年代から70年代へと移り変わっていく時代の空気を焦がすのは,間違いなく師匠の上前をはねる程の彼女のエネルギーだ。

キーワードは「ぶっ壊す」。必然性も,理由も,結果も,よく分からないけれど,とにかくカメラを回すことによって既成のものとは異なる新しい表現方法を探る。若松孝二の想像力の源は,理論でも,思想でも,言うまでもなくテクニックでもなく,ただただ既成の社会,既成概念,手垢の付いた表現方法に異議申し立てをすること。堂々と「本なんか読まない」と広言し,表現がピンク映画の観客の許容範囲を超えてしまい資金に窮するや否や,今度は掌を返したように「金を稼ぐ」と称して商業主義に走る。底知れないエネルギーを湛えながら,人間くさい面を平気で晒す度量を持った師匠と,彼の下に集まった若者との交流は,しかし物語に落とし込んでみると案外にフラットで,ドラマティックな展開を期待すると裏切られるだろう。

当然ながら彼らが撮った作品とは異なる日常が,それでもスクリーンに映し出された瞬間に,不思議な生命力を持ち得るのは,日々の価値観の変動がデフォルトとなっていた時代を再現した美術,過激で優しい人々のユニークな面構えの数々,生前の若松監督とも親交があったという曽我部恵一の音楽等々が混ざり合って醸し出す,危なっかしい青春を生きているという空気感故だろう。
飲み屋の二階から立ち小便をする客に向かって,小便をかけられた通行人が笑って挨拶する光景すら,この時代ならあったかもな,と思わせる作劇は,弟子だった白石ならでは。おそらくはすべて実在だったと思しき人物に扮した俳優たちをキャスティングした段階で,既に監督の仕事は半分以上終わっていたのかもしれない。

ただ観終わって残るのは,ヒロインの死よりも,劇中のテーマでもある,商業と芸術のバランスを絶妙に保った「愛のコリーダ」を後に撮り上げた大島渚のサングラス姿だ。ひょっとすると一番美味しかったのは門脇麦よりも,大島に扮した高岡蒼佑の方だったか。
★★★☆
(★★★★★が最高)


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