子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ドライブ・マイ・カー」:分かり合えないことは絶望ではない,という希望の灯り

2021年09月04日 21時33分46秒 | 映画(新作レヴュー)
ネットで「村上春樹/映画化作品」という条件で検索をかけてみると,これまでまったく聞いたことがなかった作品も含め10作品以上のリストが出てきた。外国人のスタッフやキャストによる作品や短編作品もある中で,私が劇場で観たのは「風の歌を聴け」「ノルウェーの森」「トニー滝谷」「バーニング(劇場版)」の4本だった。このリストを見て作品の出来はひとまず措いて感じることは,小説のテイストを映像に置き換えることが難しい作家だということだ。原作の台詞をそのまま使っても映像では自然な会話にはならない一方で,感情の流れを風景描写で代弁させることも難しいとあっては,映画化作品には原作の残滓が微かに感じられるくらいに換骨奪胎を旨とするアグレッシブさが必要なのだろう。
ベネツィア,ベルリンと受賞が続き,残るカンヌでも本作で脚本賞を受賞した濱口竜介がそんな「難物」に挑むに当たって取った戦略は,映画という独自のフォーマットに演劇という異物を原型のままで取り込んで起こる化学反応を179分間待つという手法だった。

妻のことを愛し,妻もまた自分のことを愛していると信じていた演出家の家福(西島秀俊)は,男性遍歴を繰り返していた妻を失うことを畏れていた。妻から話し合いたいと言われた夜に突然訪れた妻の死は,家福を打ちのめす。2年後広島でチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の演出を引き受けた家福は,仕事をする間,彼の車の運転をすることになったみさき(三浦透子)と車内で亡き妻が吹き込んだテープを聴き続けるうちに,亡くなった子供と同い年だというみさきの過去を辿ることを決意する。

妻との間で本当のコミュニケーションが取れていなかったのではという家福の思いが,様々な形で繰り返し描かれる。家福が愛車サーブの運転をみさきに任せることを拒否することは,その象徴だ。前半に何度も挿入される,家福が赤いサーブを走らせるロング・ショットは,自分が本当の意味で通じ合える対象が車だけになっていたからのように映るのだが,それは演劇を作っていくための本読みで,全ての役者に「台詞は棒読みで」と指示することにも現れる。更にそこで選ばれた外国人や聾唖の役者たちが,各々自国語や手話で演じることによって,言葉は一義的な意味を失っていき,次第に台詞を発する役者の地が電気的な発火を起こしていく様は,スペクタクルと呼ぶのが相応しい面白さに満ちている。

純ブンガクを,国際映画祭で評価されるような格調高い作品に仕上げながら,一瞬たりとも目が離せない会話劇に仕立てる技術の高さは尋常ではない。石橋英子の控えめな電子音が,寡黙でありながら豊かなニュアンスが込められた台詞回しに反響していつまでも耳に残る。村上春樹の映像化作品の白眉だ。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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