子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

高校球児の聖地に行ってみた

2009年08月21日 23時04分31秒 | Weblog
子供の頃から野球をするのも観るのも好きではあったが,周りが巨人のV9に湧く中,好きな選手は平松と松原という,生粋の大洋ホエールズ(現在の横浜ベイスターズ)ファンだった。来る日も来る日も負けてばかりのチームを贔屓にしていたから,という訳でもないのだろうが,何故か昔から「勝とうが負けようが,それでも野球は続いていくのだ」という世界観に支配されていたという気がする。
確かに勝ったら嬉しいけれども,負けたからといって,それで世界が終わる訳じゃなし,気持ちを切り替えて明日の先発を予想しようじゃないか,という模範的な(かつ小生意気で食えない)プロ野球ファンだったと,今にして思う。

そしてそのことが,負けたら終わりという高校野球が持つ独特の「熱狂」が苦手,という性向に繋がっていた可能性は高い。
だから,暇な時間を持て余していた(はずの)小学生時代も,甲子園のヒーローに憧れた記憶は殆どない。長じてからは青春の汗と涙が交差する過酷なトーナメント戦も,投手寿命を縮める原因としか思えず,「どうして大人が子どもの将来を狭める方向へ煽るような真似をするのか」という憤りの方が先に立つという有様だった。

それが変わってきたのには,自分の子供たちが高校生年代になって,好きなスポーツに熱中する様子を間近で見る,という経験をしたことが大きいと思う。
彼らはおそらくどこかの時点で(野球ではなかったが)プロ選手になるという可能性を見切りつつ,それでも自分で選んだ好きなスポーツを高校卒業までやり切るという,私には縁がなかった貴重な日々を過ごすことが出来た(はず)。その過程で,言葉にしてみれば月並みだが,地道な努力の大切さを実感し,悔しい敗戦に涙し,そして何よりかけがえのない仲間を得ることが出来のではないかと想像する。
まさか子供にそんなことを確かめる訳にも行かないので,あくまでも想像ではあるのだが。

そんな子供と多くのチームメイトたちの姿を観ることによって,高校スポーツに対して私が持っていた「所詮,最後はプロ」的な偏見は急激に溶解してしまったようだ。最近は勝者だろうが敗者だろうが,試合後の姿を見せられると涙を抑えるのが難しい,という数年前には想像も出来なかったていたらくとなってしまった。
そんな状況を自覚している折,夏休みを取って関西に行く機会に恵まれたため,この際とばかりに高校スポーツの象徴たる甲子園に足を運ぶことにした。

その印象を一言で言うと,ある程度予想はしていたが,やはり甲子園は特別なところだった,というこれまた平凡な感想に尽きる。
内野スタンドを覆う銀傘の更新工事が終わって最初の大会だったが,おそらくこれまで彼の地で行われてきた81回の大会と,基本的に変わるところはないのではないかと勝手に想像するくらい,長い伝統を強く感じさせる祝祭の場,という感じだった。

球場の巨大さ(観客席の数は日本最大),その座席を埋め尽くすファン,照りつける陽光とそれを跳ね返す外野の芝のやや剥げかけた緑,鳴り響くブラスバンド,グラウンドを挟んでエールを送り合う応援団,孫の代まで語り継がれるであろうヒットを打った選手の誇らしげな勇姿,得点が入った時の,地の底から湧き出るような喝采,そして心の叫びという形容が相応しい,選手の親(と思われる)の絶叫。
そのどれもが特別な迫力を持っているだけに,場面に応じてその幾つかが合体した瞬間の相乗効果は,まさしく「聖地の儀式」。手垢にまみれた表現しか思いつかなくて情けない限りだが,「甲子園」とは,1世紀近くにわたる年月の重みと,そこに込められてきたとんでもない数の若者の思いが積み重なった場所,と呼ぶしかないところだったのだ。

試合にも簡単に触れておきたい。
私が観たのは火曜日の第3試合,郷土の代表,7年振りに出場する札幌第一高校と,7年前の試合で一高に土をつけ,今年も予選から本大会まで無失点で来た強豪,智弁和歌山の2回戦だった。

既にこの地の闘いに習熟していたはずの智弁の岡田君は序盤,完全に自分のペースを見失っていたように見えたが,それも甲子園という場が発する独特の磁気のせいかもしれなかった。多分あそこは何度立ったとしても,同じ空気は二度と再現されない場所なのだ,きっと。
だがそれ以上に,無死満塁で制球の定まらない岡田君に対して,何故か初球からスクイズを仕掛け,外されて無条件でアウトを一つプレゼントしてしまった札幌第一高のベンチの方が,その磁気の影響を強く受けていたように見えた。この回に暴投などから2点は取ったものの,大量得点を奪って相手の戦意を喪失させることが出来なかったことが,最終的に9回の逆転に繋がったことは,あの場で試合を観ていた歴戦の強者にとっては結果論ではなかったようだ。私の前に座っていた,甲子園歴20年と連れの一高出身者に豪語していた地元の若者(一体幾つから観てるんだ?)は,「ここ(甲子園)では,相手の投手が目一杯の時には,かさにかかって攻めなアカン。駒苫はそれが出来とった」と解説していたが,私の隣にいた中年のおっちゃん(関西では中年よりもこちらの方が似合う)も深く頷いていたものだ。

試合後移動した奈良のあちこちで見かけた総体のポスターを見ながら,何故野球だけがここまでスポットライトを浴びるのか,という素朴な疑問が,正直浮かばないでもなかった。しかし宿のTVで,大統領選を控えて緊張するアフガニスタンの街角の様子を見ながら思ったのは,あの特別な「磁気」と「雰囲気」を全身に感じながら,高校生活を総括するような2時間弱の体験が出来る子供たちの至福と,それを目指して歯を食いしばった子供たちの歓びが,かの国でも共有される日は来るのだろうか,という問いだった。そんな日が来るまで頑張れ,世界の高校生。


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