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映画「ワルキューレ」:ケネス・ブラナーはジャック・バウワーではありません

ヒトラーが1945年の4月に敗色濃いベルリンで自ら命を絶ったという史実が,あまねく知れ渡っているという現実を前提に,失敗に終わった「ヒトラー暗殺計画」をヴィヴィッドに描くにはどうしたらよいのか。
才人ブライアン・シンガーは,トム・クルーズという絶対的な映画スターを輝かせるという,おそらくは15年に亘るフィルモグラフィーの中でも初めてとなる制約の下でこの困難な課題に挑み,残念ながら劇中の爆破作戦と同様,あえなく失敗してしまったように見える。

既にその結末が分かっている歴史的なインシデントを描くには,岡本喜八が1945年8月14日から15日にかけての24時間を追った「日本のいちばん長い日」(1967年)で採用したような,事件に関わる視点を幾つも用意して,ドキュメンタリー的手法で迫る方法がまず考えられる。
しかしトム・クルーズの主演が条件となると,最初からそういったアプローチを検討すること自体が難しかったのだろう。複数の視点を採用した場合は,そのどれもが等しい重みを持つことが,重層的な描写に欠かせない要件となる一方で,主役となるトムに関するシークエンスが,テレンス・スタンプやビル・ナイ,トム・ウィルキンソン(いずれも素晴らしい役者だが)達の描写と並列,等価になるということは,やはりこの企画の成り立ちから考えてもあり得なかったはずだ。

残された方法は,トム扮するシュタウフェンベルク大佐の反体制的良識面を入り口にして,そのヒロイックな活躍を描く「スター映画」としての道であり,本作も大筋ではそのアプローチに沿っている。事実,大戦末期に軍人でありながらナチスの所行に憤り,ドイツが置かれた状況を冷静に判断した上で,覚悟のクーデターを決行したシュタウフェンベルクは,やや直情に傾くきらいはあるものの,行動力に溢れた魅力的なリーダーであり,悲劇のヒーローとして昇華する資質は充分に備えていたように見える。

しかし脚本の芯を決める段階で,「ヒーロー」もので行く,という明確な判断は遂に行われなかったようだ。それが端的に現れているのが,ヒーローが相対する敵方の不在,象徴的には作品中でも言及されるヒトラーの懐刀であり,クーデター派と対峙するはずだったヒムラーの不在だ。
そのため,シュタウフェンベルクが闘った真の相手は,ヒトラー一味ではなく,爆破の失敗原因と同様に,通信班の主任や予備軍を統括する司令官の瞬間的な「判断」という,ある意味「運」だったのではないか,という印象を観客は抱いてしまうのだ。

シンガーの先行作「X-メン」シリーズにおいて,物語の奥行きを深くしていた白黒の判断に関する登場人物の逡巡,という要素に対応するはずだったフロム元帥の曖昧な扱い,更に最も緊迫していたはずの,爆破遂行直後の3時間の空白,という脚本構成上の決定的な欠陥も,物語の緊迫感を削ぐ方向に作用している。
シュタウフェンベルクという人物の存在を知っただけでも,観て良かったとは思うが,映画が目指すものは,決して「その時歴史が動いた」と同じものではないはずだ。
★★★
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