子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「湖のほとりで」:日常に潜む静かな狂気を炙り出す知性
各方面から絶賛されているイタリア産のミステリーだが,私が「イタリア映画」に対して抱いていたステレオ・タイプの「明るさ」とは別種の,知的なポジティブさとでも呼ぶべき感触が,新鮮な後味を残す。
イタリアの片田舎,静かな湖の畔で若い女性の絞殺死体が見つかる。イタリア版の「ツイン・ピークス」かと思われるようなオープニングから展開されるのは,被害者が関わっていた4つの家庭を巡るゆったりとした推理劇だ。陽光が降り注ぐ村を包み込む空気の温度は時に温かく,時に冷ややかだが,揺るぎない知性が放つ輝きが画面に与えている統一感は,監督のアンドレア・モライヨーリが長く師事していたというナンニ・モレッティの作風に通じるところがあるかもしれない。
ただ丁寧に織り上げられている一方で,新人監督の長編デビュー作に期待してしまうある種の「勢い」のようなものは,あまり伝わってこない。逆に前面に出てくるのは,アフリカの民衆音楽にインスパイアされながら,それをスタジオで熟成しすぎていつの間にかリズムの持つ躍動感を失っていったピーター・ゲイブリエルの後期作品に通じるような「老成」という感触だ。
それが一番顕著に出ているのは,クライマックスだけでなく,物語のブリッジに当たる部分でも,執拗に鳴り響き続ける音楽の使い方かもしれない。良く考えられた撮影アングルや台詞,上品で控えめな演技を披露するヴェテラン俳優達が作り上げる映像の力をもう少し信じて,余白のある作りにしたならば,余韻はもっと深まったのではないだろうか。
主役のトニ・セルヴィッロは,渋さとエネルギーが自然に同居するような立ち居振る舞いが魅力的。「ホット・ショット」の演技で本格的なハリウッド進出を逃してしまったヴァレリア・ゴリノーも,母国に帰って上手に年を取っていたようだ。ただ,タヴィアーニ兄弟作品における「三船敏郎」こと,オメロ・アントヌッティの使い方だけは,正しいとは思えなかった。ちょっと,もったいない。
ラスト・シーンで,認知症のせいで娘のことが分からなくなった母親が見せる笑顔が素晴らしい。殺人事件のきっかけとなった事件が内包する悲劇を,静かに葬るこの人間の「大きさ」こそが,大団円に相応しい。
★★★☆
(★★★★★が最高)
イタリアの片田舎,静かな湖の畔で若い女性の絞殺死体が見つかる。イタリア版の「ツイン・ピークス」かと思われるようなオープニングから展開されるのは,被害者が関わっていた4つの家庭を巡るゆったりとした推理劇だ。陽光が降り注ぐ村を包み込む空気の温度は時に温かく,時に冷ややかだが,揺るぎない知性が放つ輝きが画面に与えている統一感は,監督のアンドレア・モライヨーリが長く師事していたというナンニ・モレッティの作風に通じるところがあるかもしれない。
ただ丁寧に織り上げられている一方で,新人監督の長編デビュー作に期待してしまうある種の「勢い」のようなものは,あまり伝わってこない。逆に前面に出てくるのは,アフリカの民衆音楽にインスパイアされながら,それをスタジオで熟成しすぎていつの間にかリズムの持つ躍動感を失っていったピーター・ゲイブリエルの後期作品に通じるような「老成」という感触だ。
それが一番顕著に出ているのは,クライマックスだけでなく,物語のブリッジに当たる部分でも,執拗に鳴り響き続ける音楽の使い方かもしれない。良く考えられた撮影アングルや台詞,上品で控えめな演技を披露するヴェテラン俳優達が作り上げる映像の力をもう少し信じて,余白のある作りにしたならば,余韻はもっと深まったのではないだろうか。
主役のトニ・セルヴィッロは,渋さとエネルギーが自然に同居するような立ち居振る舞いが魅力的。「ホット・ショット」の演技で本格的なハリウッド進出を逃してしまったヴァレリア・ゴリノーも,母国に帰って上手に年を取っていたようだ。ただ,タヴィアーニ兄弟作品における「三船敏郎」こと,オメロ・アントヌッティの使い方だけは,正しいとは思えなかった。ちょっと,もったいない。
ラスト・シーンで,認知症のせいで娘のことが分からなくなった母親が見せる笑顔が素晴らしい。殺人事件のきっかけとなった事件が内包する悲劇を,静かに葬るこの人間の「大きさ」こそが,大団円に相応しい。
★★★☆
(★★★★★が最高)
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