子供はかまってくれない

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映画「アイ・アム・レジェンド」:何故に3度も映画化されたのか?

2008年01月01日 22時07分02秒 | 映画(新作レヴュー)
「激突」や「ヘルハウス」,更に「ある日どこかで」など,渋めの映画化作品の原作を幾つもものしてきた小説家,リチャード・マシスンの手になる「吸血鬼」の3度目の映画化。3度目にして初めて,映画のタイトルが小説の原題どおり「I AM LEGEND」となったようだが,大勢の映画人がここまで執念を燃やす理由が,朧気ながら見えたような気がする。4度目の可能性は,多分ない,と思うのだが,どうだろう。

前半の荒廃したニューヨークの街角の描写が圧倒的だ。さんざんTVコマーシャルで映像が流されていたにも関わらず,ダウンタウンの交差点を疾走するマスタングと鹿を移動で捉えたショットには,マシスンの想像力とアイデアを具体化するべく注がれた,大勢のクリエイター達の努力が迫力ある映像として結実している。
更に,主人公が銃を抱え,敵を警戒しながらゆっくりと歩く画面の静寂には,どんな台詞よりも,主人公が置かれた環境の過酷さと,彼を包む寂寥感を的確に語る言葉がある。

この地球にたった一人残された(と信じている)人間が,孤独や屈強な敵にどう立ち向かっていくか,というサバイバル劇は,未知の世界に足を踏み入れた文明人の冒険,というスタイルを取って,これまでも数多くの作品が作られてきた。正にこの原作の翻訳タイトルに連なる,ロメロ以来のゾンビ映画もまた然り。
だから,この物語が真のオリジナリティを持つためには,その前段の部分,人間が一人で都会に置き去りにされ,都会=文明の記憶を鮮明に保ったまま,コミュニケーションという作業から断絶されて生きることの過酷さをこそ,きっちりと描く必要があったのだ。その意味で,物語が全て語られる前の,一見導入部に見えるこれらの部分が正に,映画制作に携わる者達の冒険心を誘う肝だったのでは,という推測が,観終わった観客の胸に生まれるはずだ。

そして,北村薫=平山秀幸のコンビによる「ターン」を始めとして,都会に取り残された人間を描いた幾つかの映画の中で,本作が,ブロードウェイのど真ん中で朽ち果てた「RENT」や「WICKED」の看板を使って人間の文化的な営みが途絶するという恐怖を援用し,個人の存在の意味を浮き彫りにして見せたことによって,これらの作品群の代表作となったことは疑いがない。

ウィル・スミスが,唯一の話し相手だった愛犬(サムという名は,サマンサの略称だったと最後に判明する)と別れを告げる場面の演技は,これまでのどの出演作よりも真に迫っている。彼の生きるためのエネルギーとして,ボブ・マーリーを持ってくるセンスも,映画全体のトーンにフィットしている。
「コンスタンティン」では今ひとつ煮え切らなかったフランシス・ローレンス監督にとっても,3度目のチャレンジを終えて少なくとも「やり残した」という後悔はないだろうと思う。だからギャンブルにはからきし弱い私でも,4回目はない,と断言したい。


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