子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「ノーカントリー」:「この国では老人は生きられない」という原題の重さ

2008年03月20日 23時46分29秒 | 映画(新作レヴュー)
月光に浮かび上がる車のシルエット。音を立てずに廊下を進む白い靴下。吹き飛ばされるドアの錠。命を懸けて,しかし何気なく宙に向かって弾かれる硬貨。
必要最小限の情報が,微かな音だけを伴い,完璧な構図で画面に立ち現れては消える。それが繰り返され,やがて観客は尋常ではない緊張感にがんじがらめにされていく。
人間の愚かさが紡ぐ物語のダイナミズムに溢れていた「ブラッド・シンプル」と「ファーゴ」を結ぶ線上にあるスリラーのように見えながら,これらの作品とは全く異なる後味を残すコーエン兄弟の傑作だ。

冒頭で語られる保安官エド(トミー・リー=ジョーンズ)の独白から,人間の常識や善悪の判断を超える絶対的な「存在」の登場が予告される。その「存在」殺し屋シガーは,観客の想像も犯罪映画の悪役という括りも軽々と飛び越え,普通の人々が抱く「絶対に入ってはいけない所」という領域に,酸素ボンベを使って潜り込む。
ハビエル・バルデムが生み出した圧倒的な虚無は,オスカーの獲得という栄誉以上に,観客の心に残した深い傷によって「歴史」の一部となったと言える。

寓意に満ち,入り組んだストーリーは,終盤に至ってその絶対的な「存在」にも過酷な運命を襲いかからせる。だが,安寧を願う観客の思いは裏切られ,絶対的な「存在」は滅びない。その代わりに観客に与えられるのは,トムと引退した保安官代理との,諦念に満ちた静謐な会話だ。シガーと金を持って逃げる男モスとの,映画的技巧の粋を結集した打ち合いシーンを凌ぐ,本当のクライマックスが醸し出す凄みは,過去のコーエン兄弟作品にも類を見ないものだ。

オスカーの発表以来,ハビエル・バルデムにばかりマスコミのスポットライトが当たっているように感じるが,緊張感に満ちたトライアングルを構成する残りの2点,トミー・リー=ジョーンズとジョシュ・ブローリンの演技も,実に味わい深い。特にトミー・リーは,自ら監督した傑作「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」に続いて,古き西部劇の現代劇への翻案という難題を,ユーモアを称えた悲しみによってクリアしている。缶コーヒーのCMの役柄にも似て,人情を解す宇宙人のようだ。
更に,どうしても言及しておきたいのは,撮影監督ロジャー・ディーキンスの見事な仕事。これまでもコーエン兄弟のヴィジョンを具体化する最良のパートナーとして力をふるって来たが,特異なホラー映画とも言い得る極限の恐怖と同時に,揺れ動く人間の心理の綾を,光と影によって巧みに表現した今作への貢献は,オスカーを穫るに値する。

予定調和的勧善懲悪から,果てしない荒野の広さの分だけ隔たった,突き放すようなラストの余韻は,金の詰まったバッグよりも重量感がある。
「ディボース・ショウ」,「レディ・キラーズ」と続いたライト・コメディの次に,ここまでヘヴィな哲学を組み上げてみせたコーエン兄弟こそ,モス級の「存在」なのかもしれない。


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