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映画「ありがとう,トニ・エルドマン」:腹がよじれた後に訪れるけったいな感動

2017年08月12日 21時34分12秒 | 映画(新作レヴュー)
是枝裕和の「歩いても 歩いても」の終盤近く,元開業医だった父親(原田芳雄)が,急病人を救うべく駆け付けた救急隊員に専門的な話をしようとして無視されるシーンがある。たとえ引退しても,いつまでも「医師」として振る舞うことを止められない老人が,既に「その時は終わった」ことを思い知らされる,哀切極まりない場面だったのだが,もし本作の主人公である父親のマインドが彼に少しでもあったのなら,間違いなく急いで白衣に着替えて出てきただろうな,と観終わってからぼんやりと想像していた。ドイツ人監督マーレン・アデとの邂逅となった「ありがとう,トニ・エルドマン」は,そんなとりとめのない思いをも引き寄せる,近来稀に見る豊かなエネルギーに満ちた人生賛歌だ。

コンサルタント会社の要職に就きヨーロッパを股にかけて活躍する娘と,どうにかコミュニケーションを取りたいと思っているちょっと,いや世間一般の基準からすれば相当変わった父親の物語。父親は娘の出張先であるブダペストを訪れてビジネスの最前線に触れ,その生き馬の目を抜くような過酷さを知り,娘のために何かをしなくては,という思いに囚われる。それが「トニ・エルドマン」という架空のキャラクターになりきって,娘の周辺に出没することは,当然娘にとっては迷惑以外の何物でもないのだが,しかしやがてその奇行が娘の心に大きな変化を生じさせることとなる。

まさかあの程度の変装で本当に娘を騙せると,本人が信じていたのかどうかははっきりしない。しかしそんなことは父親にとってはどうでも良いこと。できる限り娘の近くにいて,何らかのコミットを続けていくのだ,という父親ならではの使命感が暴走する様は,とにかくおかしくて馬鹿らしくて切ない。そんな相反する複雑な感情を喚起させる父親役ペーター・ジモニシェックと娘役サンドラ・ヒュラーは,まるで漫才とドキュメンタリーとシリアスなドラマという,一見相容れない複数のジャンルの境界で,軽やかに飛翔を遂げてみせる。

本質的には,グローバル化が進む今のビジネス模様を織り込みつつ父娘の相克と絆,家族のあり方を問うという実にシリアスで重いドラマでありながら,フレームとしてコメディを選択したアデ監督の判断こそが勝利の要因だったのかもしれない。クライマックスとなるホームパーティーのシークエンスで,私は比喩ではなく二度絶叫に近い笑い声を上げた。それが決してオーバーなリアクションではなかったことを,是非とも劇場で確かめて欲しい。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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