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映画「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」:高い志とお下劣度合いは変わらず

ドラマとドキュメンタリーの境界線上で,高邁な批評精神と下ネタ中心のギャグを駆使して,文字通り命がけの映画づくりを続けるサシャ・バロン=コーエン(出演・脚本)とラリー・チャールズ(監督)が組んだ第3作は,リビアのカダフィー大佐を下敷きにしたと思しき独裁者ネタで来た。
「金正日の思い出に」というクレジットから始まる作品は,これまでの2作「ボラット」と「ブルーノ」からフォーマットが変わったことによって,作品の空気にはやや変化があったものの,まやかしの良識に安住する米国社会をあざ笑う舌鋒の鋭さは相変わらず。腹筋の強化にはもってこいの,笑うエクササイズとしての効用も充分に期待できる出来だ。

何が変わったかというと,これまではカザフスタンのTVリポーターやオーストリアのゲイのファッション評論家に扮したコーエンが,映画の撮影であることを明かさずにまき起こす過激な騒動を,シリアスに受け取ってしまった人々の反応をドキュメンタリー形式で切り取ったスリリングなパート,いわば「どっきり撮影」が,本作ではなくなっているのだ。
すなわち,ハプニングに遭遇して素でパニックに陥ったり思わず出てしまう人々の本音が,批評や笑いの肝となっていた構成を,練り込まれた脚本だけで再現しなくてはならないというハードルが,独裁者アラディーン(コーエン)が走るコース上に設定されてしまったことになる。

これは「尖った先端を持つ」核ミサイルの開発以上に高度なミッションだったに違いなく,大作的な贅肉をまとった分,やや失速している箇所があることは認めざるを得ない。「ボラット」にあった,笑いの渦の中で次第に血も凍るような空気が支配していくロデオ大会のシークエンスや,「ブルーノ」で中東紛争の只中に飛び込む場面が持っていた「そこまでやるのか」的緊張感を求めると,肩透かしを食らう可能性はある。

しかしそれでもコーエンとチャールズのコンビは,コーエンの相変わらずの批評精神とベン・キングズレーのいかにもな演技を得て,充分に健闘していると言えるだろう。「米国型の民主主義」や「良心的NPOの無謬性」が世界のスタンダードであると疑わないアメリカ社会に切り込む前傾姿勢は,やはり唯一無二のものだ。笑わせることと考えさせることをこんな形で自然に同居させつつ,83分という尺にまとめたコーエンこそ,キートンやチャップリンらコメディの始祖の精神を受け継ぐ真のフィルム・メイカーなのだ。
★★★★☆
(★★★★★が最高)
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