子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。
子供はかまってくれない
映画「ジュディ 虹の彼方に」:漂白されたジュディ・ガーランドの最後の輝き
ジュディ・ガーランドが「オズの魔法使い」で歌い,苦境にある人々の希望を歌ったスタンダード曲となった「オーバー・ザ・レインボー」が,LGBTQの人々にとってのひとつの象徴,ある意味「テーマ曲」ともなっているという事は聞いたことがあった。ただこの作品を観るまで,その理由は「人間は7色の虹のように様々」という,漠然としたメタファー的な使われ方だと思っていた。それが実はジュディ自身が生前にLGBTQの人々に対して明確なシンパシーを表明しており,そのことが彼らを精神的に支えていた,という事実がまずあり,彼女の逝去後,その死を悼んで「オーバー・ザ・レインボー」が彼らの運動のテーマ曲となっていったという歴史はまったく知らなかった。彼女と彼らの間にあった強い絆を彷彿とさせるエピソードが劇中,ジュディのパーソナリティを浮き彫りにする重要なプロットとして描かれている。まだ#MeToo運動がなかった時代に,幼児虐待から始まる短い人生を駆け抜けたジュディ・ガーランドの物語が,死後半世紀を経て,レネー・ゼルウィガーの見事な演技によってここに甦った。
類い希な歌の才能を持ち,若くしてショービズ界の頂点に立ちながら,ハリウッドを蹂躙していた薬,酒,セックスに搦め取られてしまったと伝えられるジュディ・ガーランド。その最晩年を描いた本作において,既に様々な伝記で語られてきた,スキャンダラスな幾つもの小骨は,慎重にピンセットで抜かれている,という印象を受ける。勿論,年の離れた若い恋人をめとり,悪夢にうなされ寝不足のために大事な本番に遅れてきては度々醜態をさらす,といった有名なエピソードが並べられてはいる。そんな彼女を何とかステージに立たせようと努力するイギリス公演のマネージャーに扮するジェシー・バックリーが,時にジュディに取って代わって物語のエンジンになる瞬間もあるくらいに,天才故の困った性癖や悲しい運命が紹介されはする。だがそこからは,たとえば「サンセット大通り」のように,栄華を極めた人間の鬼気迫る執念のようなものは浮き上がっては来ない。
そんな丁寧に漂白された物語にも拘わらず,観客の心を強くグリップするのは,生まれついての「スター」として「ザ・芸能人」人生を全うしようとしたジュディの覚悟を演じきった,レネー・ゼルウィガーの演技と歌だ。少し歌えるだけで「歌ウマ芸能人」と賞賛される日本の芸人のレヴェルを遥かに超える歌唱力と,浮沈を経験した自らの人生をジュディに重ね合わせたかのようなレネーの演技は,オスカー戴冠に相応しい。
決して似てはいないけれども,先人の生き様をトレースしながら憑依型ではない演技で,一からモデルを作り直してみせた素晴らしい仕事に,☆をひとつ追加。
★★★☆
(★★★★★が最高)
類い希な歌の才能を持ち,若くしてショービズ界の頂点に立ちながら,ハリウッドを蹂躙していた薬,酒,セックスに搦め取られてしまったと伝えられるジュディ・ガーランド。その最晩年を描いた本作において,既に様々な伝記で語られてきた,スキャンダラスな幾つもの小骨は,慎重にピンセットで抜かれている,という印象を受ける。勿論,年の離れた若い恋人をめとり,悪夢にうなされ寝不足のために大事な本番に遅れてきては度々醜態をさらす,といった有名なエピソードが並べられてはいる。そんな彼女を何とかステージに立たせようと努力するイギリス公演のマネージャーに扮するジェシー・バックリーが,時にジュディに取って代わって物語のエンジンになる瞬間もあるくらいに,天才故の困った性癖や悲しい運命が紹介されはする。だがそこからは,たとえば「サンセット大通り」のように,栄華を極めた人間の鬼気迫る執念のようなものは浮き上がっては来ない。
そんな丁寧に漂白された物語にも拘わらず,観客の心を強くグリップするのは,生まれついての「スター」として「ザ・芸能人」人生を全うしようとしたジュディの覚悟を演じきった,レネー・ゼルウィガーの演技と歌だ。少し歌えるだけで「歌ウマ芸能人」と賞賛される日本の芸人のレヴェルを遥かに超える歌唱力と,浮沈を経験した自らの人生をジュディに重ね合わせたかのようなレネーの演技は,オスカー戴冠に相応しい。
決して似てはいないけれども,先人の生き様をトレースしながら憑依型ではない演技で,一からモデルを作り直してみせた素晴らしい仕事に,☆をひとつ追加。
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