子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「JUNO」:生き生きとした台詞と音楽。ヒットしなかったのは何故だ?

2008年12月14日 15時07分34秒 | 映画(新作レヴュー)
今年のアカデミー賞についての一文を書いた時(2月27日投稿)に,「予告編を観た限りの判断だが,アメリカ版『14歳の母』は化ける」と大胆にも予想してしまったのだが,興行成績の方はどうやら「化ける」とはほど遠い結果に終わってしまったらしい。
しかしデビュー作でアカデミー脚本賞を獲ってしまった元ダンサーのディアブロ・コディは,ニュアンスとエネルギーが溢れた台詞と二段重ねの構造を持つ優れた脚本をジェイソン・ライトマンに提供し,結果的に作品は爽やかでありながらもほろ苦い後味を残すユニークなものとなった。

映画を観る限り,10代の少女の妊娠という話題は,アメリカではさしてセンセーショナルな取り上げられ方をされないものになってしまっているようだ。その分,物語のスポットライトは「妊娠」そのものよりも,「出産」以降の処し方に当てられている。
だから,主人公JUNO(エレン・ペイジ)から妊娠を告げられた相手の男の子や両親との間で交わされる会話も,発覚した「衝撃の事実」を巡るエキサイティングなものにはならない。普段よりも,戸惑いと気遣いと愛情が多めに入り交じってはいるものの,あくまで普段の日常会話の延長線上で,子供が生まれた後のことを話し合う姿には,実にリアルな立体感が伴っている。

しかしこの映画のもっとリアルで恐い展開は,出産後に子供の里親となることを申し出たカップルの夫の方とジュノとの「ロリータ」さながらの関係が描かれる後半だ。
子供を強く望む妻に比べて,CM音楽制作を生業とし,いまだ夢見る中年から脱することが出来ていない男は,ジュノの純粋さから出る言葉や態度に惹かれ,次第にのっぴきならない精神状態に追い込まれていく。
一方のジュノの方は,妊娠をもろともせず,というより,それがための母性の目覚めの力もあって,女としての自信と魅力が自然に昂進していく。一見接近していくようで,実は逆の位相を持った互いのベクトルがどんどん離れていく様子を,「カーペンターズって,今で言うとホワイト・ストライプス?」というジュノの台詞一発で表現してしまった脚本の凄さが,ここに凝縮している。

エレン・ペイジの柔らかく伸びやかな演技は勿論素晴らしいが,ジュノの継母が,生まれたばかりの子供を抱いた里親のジェニファー・ガーナーと対面して,「継母同士ね」というシーンには心を打たれた。継母を演じるアリソン・ジャネイと父親役のJ.K.シモンズのどっしりとした存在感がなければ,この作品の豊かさは半減していただろう。

ベックをぽっちゃりさせたような雰囲気を持つボーイフレンドと,ギターで軽やかにデュエットするラストシーンのジュノの姿には,突然巻き起こるアクシデントも肥やしにして,前を向く女の強さが漲っている。日本で興行が大成功とはならなかった一番の原因は,この国の男の子に彼女の強さを受け止められるような度量がなかったからだ,という批評を見かけたとしたら,私は思わず頷いてしまうかもしれない。


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