1965年12月。
やっと俺も成人に。市からも成人式の案内が来たが、俺は会社で行われた成人式だけに参加した。なんで、市の式典に行かなかったかというと、高校を卒業して有名企業に就職したやつとか大学に進学したやつらと顔を合わすのが嫌だったからだ。
俺は、年末ボーナス全部を当て込んで成人式用の背広の誂えを、職場に時々来ていたテーラーのおっちゃんに頼んだ。おっちゃんがメジャーを当てながら「兄ちゃんは足も長いし、ええ体してしてるから、かっこええ背広になるで」と言ってくれた。色は紺で、生地はおっちゃんの勧めた、少しいいものを。デザインはシングルだったが、前開きの裾を丸くではなく少し角をもたせたものにし、ズボンは流行りのノータックにした。
それから一週間ほどで仮縫いが出来てきて、年末には初めて誂えの背広が出来上がってきた。終業後、試着してみた。体にぴったりして、着心地が最高や。
おっちゃんは、両肩のところをちょっと持ち上げて、いつもの調子で「かっこえーでー!」と。俺もうれしくなった。
家に帰って、早速、カッターシャツにネクタイを締めて鏡台の前に立ってみた。自分で言うのもなんやが、なかなかのもの。これで成人式も万端や。
1964年8月。
俺はこの年の春に青年組織の民青同盟(民主青年同盟)に加入していた。
いろんな集会や学習会へ参加するようになり学校を休むことが多くなっっていた。
だんだんと「学校の勉強しているより、おれには今、もっとすることがあるのでは・・・」と思うようになっていた。
だいぶ悩んだ末に学校をやめることにした。
親に相談してからとも思ったが、入学する時も親に相談することなく自分で決めたので相談しないことにした。
夏休みの終わる1週間前に退学を伝えるために学校に行った。
あいにく担任の先生は休みだった。もう一度来るのが面倒だったので同じ学年担当の女先生に「辞めたいんです」といった。
先生は「少しくらい休んでもいいから続けたら。理由は何?」と言った。
俺は、自分の気持ちを言おうかと一瞬迷ったが言わなかった。先生の言うことは、ある程度予想していたので俺の気持ちは変わらなかった。
事務局に行って授業料や給食費などの滞納がないことなどを確認して手続きを終えた。
教員室から校門までの大きなヒマラヤ杉が並んでいる校庭をゆっくり歩きながら、この2年5カ月の夜間高校生活を振り返っていた。
先生とクラスのやつの顔が浮かんできた。
涙が出そうになったが、「何を泣いているんや。新しい出発を自分で決めたんやろ」と言い聞かせて、ぐーと涙をこらえた。
俺はこの年の春に青年組織の民青同盟(民主青年同盟)に加入していた。
いろんな集会や学習会へ参加するようになり学校を休むことが多くなっっていた。
だんだんと「学校の勉強しているより、おれには今、もっとすることがあるのでは・・・」と思うようになっていた。
だいぶ悩んだ末に学校をやめることにした。
親に相談してからとも思ったが、入学する時も親に相談することなく自分で決めたので相談しないことにした。
夏休みの終わる1週間前に退学を伝えるために学校に行った。
あいにく担任の先生は休みだった。もう一度来るのが面倒だったので同じ学年担当の女先生に「辞めたいんです」といった。
先生は「少しくらい休んでもいいから続けたら。理由は何?」と言った。
俺は、自分の気持ちを言おうかと一瞬迷ったが言わなかった。先生の言うことは、ある程度予想していたので俺の気持ちは変わらなかった。
事務局に行って授業料や給食費などの滞納がないことなどを確認して手続きを終えた。
教員室から校門までの大きなヒマラヤ杉が並んでいる校庭をゆっくり歩きながら、この2年5カ月の夜間高校生活を振り返っていた。
先生とクラスのやつの顔が浮かんできた。
涙が出そうになったが、「何を泣いているんや。新しい出発を自分で決めたんやろ」と言い聞かせて、ぐーと涙をこらえた。
1963年8月。
夏休み中に自動車運転免許書を取ろうと、6月に教習所には入学を申し込んでいた。
申し込み時は手付金3000円だけ、入学までに費用の全額を支払うということだったので、7月にもらう賞与3万円全部をそれに充てることにした。
夏休み期間中に取得するには、追試などないようにしなければならない。
講習は、実技と学科が同時並行で進んだ。
教習車はトヨタのクラウンと日野のヒルマンの2種類あり、俺は日野のだった。
初めての運転実技の時に、隣に乗った教官が「お前、だいぶ乗っているな?」と言った。
実は、会社で納品に来る下請けの兄ちゃんに「今度、教習所に行くので、ちょと乗らせて」と、無免許でだいぶ練習していたのだ。
学科もそれほど難しいこともなく、模擬テストではほぼ合格点を取れていた。
そんなことで、実技の本試験は追試もなく一発で合格。後は、試験所に行っての学科テストだけになった。
学科試験当日の午前中に教習所で最後の講習があった。教官から一枚のペーパーが配られ、「昨日のテストではこんな問題が出た。これを、しっかり頭に入れておくように」と言われた。この回答付ペーパーはすぐに回収された。
本試験は午後からの門真市にある試験場に行って受けた。
何と、試験問題の多くが午前中に渡されたペーパーの中身とほぼ同じだった。
前日の試験問題が教習所には翌日にはわかる?何か特別なルートでもあるのか?
そんなことはどうでもよかった。これで、俺も「普通」と「二輪車」の免許証を持つことができた。
2週間後、年休を取って試験場に免許書を受け取りに行き、帰りに預けていた印鑑などを受け取るために教習所に立ち寄った。教習所入口の看板には「合格率業界随一」とあった。
お客(生徒)を集めるために合格率を上げなけれがならない。この業界の競争も激しいのだ。
夏休み中に自動車運転免許書を取ろうと、6月に教習所には入学を申し込んでいた。
申し込み時は手付金3000円だけ、入学までに費用の全額を支払うということだったので、7月にもらう賞与3万円全部をそれに充てることにした。
夏休み期間中に取得するには、追試などないようにしなければならない。
講習は、実技と学科が同時並行で進んだ。
教習車はトヨタのクラウンと日野のヒルマンの2種類あり、俺は日野のだった。
初めての運転実技の時に、隣に乗った教官が「お前、だいぶ乗っているな?」と言った。
実は、会社で納品に来る下請けの兄ちゃんに「今度、教習所に行くので、ちょと乗らせて」と、無免許でだいぶ練習していたのだ。
学科もそれほど難しいこともなく、模擬テストではほぼ合格点を取れていた。
そんなことで、実技の本試験は追試もなく一発で合格。後は、試験所に行っての学科テストだけになった。
学科試験当日の午前中に教習所で最後の講習があった。教官から一枚のペーパーが配られ、「昨日のテストではこんな問題が出た。これを、しっかり頭に入れておくように」と言われた。この回答付ペーパーはすぐに回収された。
本試験は午後からの門真市にある試験場に行って受けた。
何と、試験問題の多くが午前中に渡されたペーパーの中身とほぼ同じだった。
前日の試験問題が教習所には翌日にはわかる?何か特別なルートでもあるのか?
そんなことはどうでもよかった。これで、俺も「普通」と「二輪車」の免許証を持つことができた。
2週間後、年休を取って試験場に免許書を受け取りに行き、帰りに預けていた印鑑などを受け取るために教習所に立ち寄った。教習所入口の看板には「合格率業界随一」とあった。
お客(生徒)を集めるために合格率を上げなけれがならない。この業界の競争も激しいのだ。
1963年5月。
二年生に進級。中には、理由はいろいろあったと思うが、出席日数が足りず落第して退学するやつもおった。
入会していた社研(社会問題研究同好会)が、学校のクラブとして申請をしたが今年も認められなかった。
理由は「学校の授業の延長、付随するもの」という要件に該当しないというものだった。
よって、学校の補助金は一銭ももらえず、みんなのカンパで運営していた。
それでも顧問の先生はいた。保健体育を受け持っていたH先生が引き受けてくれたのだ。
先輩から「今度の休みに先生の家に遊びに行くけど、どうする?」と言われた。
あんまり気がすすまなかったが行くことにした。気がすすまなかったというのは、メンバーの中心になっていた先輩とオレはあんまり肌が合わなかったからだ。
先生宅は、農家の離れみたいな小さな家で、入口の引き戸を開けると土間があり、家の中全体が暗かった。
子どもさんはいてなくて、おとなしい先生にお似合いの?優しそうな奥さんがいた。
高かったであろう上等な牛肉のすき焼きをご馳走してくれた。ビールも出してくれ、先輩でちょといちびって飲んだやつもおったがオレは飲まなかった。
少し酒が入っても口数が多くなることはなく、いつものH先生だった。
正式にクラブ活動として認められない、違った言い方をすれば学校からはあまりよく思われていなかった「同好会」の顧問を、H先生はなんで引き受けたのか?
オレは聞きたかったが、よう聞かなかった。たぶん、H先生は左翼だったのでは。
1963年4月。
結婚して3人の子供もいるチズコ姉ちゃんが、6畳二間のプレハブのような家から引っ越すことになった。
旦那さんが、百姓さんから50坪くらいの池を買い、タダで貰ってきた残土でそこを埋め立て家を建てたのだ。
土建屋のダンプの運転手をしていた旦那さんが、借金をして二年前に中古のダンプを買って独立してたのだ。
日本国中、建設ブームで何ぼでも仕事があり、旦那さんは日曜日もあまり休まずに働いていた。
引っ越しには、お母ァとオレが手伝いに行った。
荷物は、そんなに多くはなかったが、荷運びをダンプカーでやったものだから、荷台が高く積み下ろしが大変だった。
何でオレに手伝いの声がかかったのかわかった。背が高く、そこそこ力がある者が必要だったのだ。
親父の反対を押し切って所帯を持ったチズコ姉ちゃんだった。
年子で3人の子供を産んで大変な中で、旦那を支え、苦労してやっと自分の家を持てたのだ。姉ちゃんはうれしそうだった。
オレとは13、歳が離れているとはいえ、まだまだ若いはずなのに苦労がたたったのかだいぶ老けた。
一段落したところで、旦那さんが「ご苦労さん」と、ちょっと上等な肉のすき焼きをご馳走してくれた。
帰り際に「この家の借金もあるので、もっとがんばらんと」と姉ちゃん。
「あんまり無理したらあかんで」とお母ァ。
オレは自転車のサドルにまたがって、お母ァが後ろに乗るのを待っていた。
結婚して3人の子供もいるチズコ姉ちゃんが、6畳二間のプレハブのような家から引っ越すことになった。
旦那さんが、百姓さんから50坪くらいの池を買い、タダで貰ってきた残土でそこを埋め立て家を建てたのだ。
土建屋のダンプの運転手をしていた旦那さんが、借金をして二年前に中古のダンプを買って独立してたのだ。
日本国中、建設ブームで何ぼでも仕事があり、旦那さんは日曜日もあまり休まずに働いていた。
引っ越しには、お母ァとオレが手伝いに行った。
荷物は、そんなに多くはなかったが、荷運びをダンプカーでやったものだから、荷台が高く積み下ろしが大変だった。
何でオレに手伝いの声がかかったのかわかった。背が高く、そこそこ力がある者が必要だったのだ。
親父の反対を押し切って所帯を持ったチズコ姉ちゃんだった。
年子で3人の子供を産んで大変な中で、旦那を支え、苦労してやっと自分の家を持てたのだ。姉ちゃんはうれしそうだった。
オレとは13、歳が離れているとはいえ、まだまだ若いはずなのに苦労がたたったのかだいぶ老けた。
一段落したところで、旦那さんが「ご苦労さん」と、ちょっと上等な肉のすき焼きをご馳走してくれた。
帰り際に「この家の借金もあるので、もっとがんばらんと」と姉ちゃん。
「あんまり無理したらあかんで」とお母ァ。
オレは自転車のサドルにまたがって、お母ァが後ろに乗るのを待っていた。