風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

いろいろな出会い

2013-10-28 | 日常
来月のママチャリ・サイクリングの下見にちょこっと出かけた。
行先は、何度も行っている京都府の八幡市なのですが、当日は私が道案内をするので、今日は、大体の走行距離と時間の目安をつかんでおかなければならないのです。
ここのところいろいろあって、自転車をほったらかしにしていたので、埃を払い、注油と簡単な点検をして出かけた。

桂川右岸の河川敷道を上流に向かって走った。河川敷には、先の台風による洪水の爪痕があちこちに残っていた。
球技場や広場の土や芝生が流されていた。また、ヨシや樹木もなぎ倒され、未だに土砂をかぶっているいるところも多く見られた。自然の脅威をあらためて思い知った。
こんな景色を見ると、風もなく空も青く澄み絶好の秋日和なのにどこか心が晴れない。

(桂川と宇治川の合流点に溜まったゴミ)

途中で、建設省の車で堤防をパトロールしていた人に出会ったので、ちょっと話を聞いてみた。「こんなことは何十年もなかったこと。嵐山など、観光地は優先して復旧にかかっているが、ここらの河川敷公園などはまったく復旧のめどが立たない」と顔を曇らせて語っておられた。

途中で木津・宇治両川の合流点にある、桜で有名な背割り堤に寄り、そこから東側の御幸橋を渡り八幡市の石清水八幡宮に向かった。
ケーブルカーもあるのだが、今日は歩いて登ることにした。少し汗ばみながら15分で本殿に着いた。平日なので、参拝の人は少なかったが、三組ほどの七五三参りの人たちに出会った。着飾った子供の姿が可愛かった。

当日の昼食場所などを確認した後、裏参道が通行禁止だというので、上ってきた表参道を下った。途中、少し下ったところでネコに出会った。
日向ぼっこ?をしているのか、気持ちよさそうに目をつむって寝ているようだった。ネコちゃん、そのままにしててよと、そーと近づいて写真を撮らせてもらった。
 

警戒したのか途中で目を覚まし、背伸びをした後、その場から遠ざかって行った。たぶんノラちゃんだと思うのだが、後ろ姿に向かって、〝元気で過ごせよ〟と声をかけてやった。その声が聞こえたかどうかわからないが、途中でちらっとこっちをふり返ってから藪の方へ去って行った。

体育の日に

2013-10-14 | 日常
今日は「体育の日」です。この日を機会に自分とスポーツについてちょっと考えてみたいと思います。
小学生の時から勉強は余り好きではなかった私ですが、身体を動かす遊びは好きでした。好きだったというより、不便なところに住んでいたので長距離を歩くことや自転車で走ることは日常生活に欠かせなかったし、家の前が淀川だったので泳ぐこともガキの頃の夏の日常だった。そんなことで、小学生頃は、長距離走と水泳が好きだった。

中学生の3年間と社会人になってからの10年間くらいは、毎日坂道の10kmくらいを自転車で通学・通勤していた。20歳頃に、朝の出勤前に5kmくらい走って、その後にバーベルで筋力トレーニングをしていたこともあったが、それはあまり長続きしなかった。

その後、体力のことが気になり、身体を動かすことを意識したのは40歳前くらいになってからだろうか。テニスをやっていた先輩に誘われ生まれて初めてテニスをやった。
次に、サイクリングですが、これは50歳くらいから。子供が乗らなくなったマウンテンバイクが埃だらけになっているのを見て、もったいないと乗り始めたのがきっかけでした。

そして和太鼓。これは、子供の頃に村の祭りで若い衆が太鼓神輿に乗って威勢よく太鼓を打つカッコいい姿がずーと頭に残っていて、55歳くらいで太鼓教室に通い、その後サークルで10年くらい。
そして、社交ダンス。これは、定年になったと同時に知り合いの先輩から無理やり誘われて断りきれなかったという事情で始めることに。本当のこというと、社交ダンスにはあまりいい印象を持っていなかったので、もし、先輩からの誘いがなかったらやらなかったと思う。

ということで、今の私のスポーツとのかかわりは、テニス、サイクリング、社交ダンスを週に3~4日、歳相応に続けています。
さて、これから歳をとってくるに従い、どれかができなくなる日が来るのでは思っています。それは仕方がないことで、今は、あまり無理をせず、怪我せずで少しでも長くつづけられたらと思っています。

そうそう、もう一つカラオケがあります。カラオケってスポーツ?と思われるかもしれませんが、なかなかどうして。お腹から声を出して10曲も歌うと、次の日に腹の筋肉痛になるほどなんですよ。それと、肺のいい運動にもなっているんでは考えています。
楽しくスポーツに関わりあえることに感謝しています。

トランヂスタ・ラジオの想い出

2013-10-13 | 社会
先日のニュースで、ベトナム解放闘争で大きな役割を果たしボー・グエン・ザップ氏の死去を伝えていた。102歳だったという。
一般的に言われる「ベトナム戦争」は、1946年から1976年の30年間に及ぶベトナム人民の抗仏・抗米のたたかい。
ボー氏は、この戦いで、軍事力で圧倒的な優位にあった仏軍・米軍に対して人民軍を指揮し、ベトナム人民を勝利に導いた「将軍」だった。
私が、ボー氏の名前を知ったのは18歳くらい。ちょうど、「トンキン湾事件」をきっかけにアメリカ軍による北ベトナム爆撃が始まり、ベトナム戦争が一層拡大したころ。新聞やテレビで「ベトナム戦争」のことが報じられない日がないくらいだった。

その頃、私が所属していた青年組織でベトナム人民支援活動が取り組まれた。働いていた職場の仲間たちで、支援に「トランジスタ・ラジオを送ろう」とカンパ活動に取り組んだ。カンパは1万円くらい集まり、そこそこの性能のラジオを買うことができた。
何でトランジスタ・ラジオかと言えば、普通の無線機では、敵(アメリカ軍に)察知される。そこで、小さなFM局を作り、歌や語りの放送で、ジャングルの中でたたかうベトナム人民軍を励ますとともに、その放送にの中に暗号を忍ばせて、軍事作戦の連絡を取り合うことに使うというのだ。(そのように聞かされていた)

我々の贈ったラジオがどのように使われ、人民軍のたたかいにどれくらい役立ったのかはわからない。ただ、世界史に残る出来事にちょっとだけでも関わった自分の青春の一ページは、今でも鮮明に蘇ってくる。
あの頃は若かった。

生い立ちの景色(41) 兄とバイク

2013-10-08 | 生い立ちの景色
1961年7月。
イサム兄ちゃんがバイクを買うというので、俺もバイクの運転免許を取りに行くことにした。警察で講習を受けて簡単な筆記試験だけだったので一回で合格した。
イサム兄ちゃんは俺より前に受験していたが一回すべっていた。また、2回目の試験を受けるということだった。

そんな兄ちゃんがある日、会社の帰りに真っ新なホンダのスーパーカブ50CCに乗って帰ってきた。なんでも、カブの中でも一番いいものだそうでカッコいいやつだった。
俺の家では高い買い物だった。兄ちゃんの夏のボーナスだけでは足りなかったので、家からもいくらか出してもらったようだ。

兄ちゃんは、それから暫くして2回目の試験を受けたがまたすべった。そんなことで、免許を持ってない兄ちゃんは今まで通り毎日自転車で会社に行っていた。そして、3回目の試験はもう受けないという。イサム兄ちゃんはもともと勉強が嫌いだったので、筆記試験が苦手だったのだろう。

ということで、せっかく買ったバイクなのに自分は乗らないでもっぱら俺が乗っていた。これはここだけの話ですが、ほんとうは兄ちゃんは時々に内緒(無免許)で乗っていたのです。また、このバイクはエンジンの排気量が50CCなので二人乗りはできないのだが、よく兄ちゃんを後ろに乗せて俺が運転して駅まで送ったりしていた。

一方、俺の会社生活は仕事にもだいぶ慣れてきて要領もわかってきたので順調だった。ただ、この夏の暑さには参った。冷房のない工場中の窓を全開していたし大型の扇風機がいくつか置いてあったがまったく効かなかった。
昼の食堂に集まるみんなの作業服の背中がびしょ濡れだった。
俺は仕事中にもウオータークーラーの水を飲みに行くことができたが、コンベヤーラインに入っている人らは休憩までの2時間、自由にトイレにも行けなかったし水を飲みに行くこともにできなかった。