きょう、私が定年まで働いていたM電器(現在はP社)の大先輩で、一生涯を労働組合運動で頑張られ、一年半前に亡くなられた齋藤秀吉さんの追悼集が送られてきた。
齋藤さんと知り合ったのは、斉藤さんが電機労連(電機大手労組の産別組織)の役員を降りられ、私が働いていた事業所に戻ってこられた1965年頃だった。私がちょうど二十歳頃で、労働組合運動や青年運動に興味を持ち活動し始めて2、3年の頃だった。当時、斉藤さんは労働者教育協会という、労働者が社会科学や労働組合運動の理論を学ぶ組織の講師もされていて、専門にされていた「賃金論」などの講義を受け感銘したことを思い出す。
齋藤さんは15歳ほど年上だったが、我々とも対等に話をしてくださった。時には、論争を吹きかけたりしたこともあったが、いつも理路整然にしかも優しく指導をしてくださった。また、齋藤さんは、量はそれほどでもなかったが、お酒が好きで、活動で出かけた帰り道でよく居酒屋で飲んだこともあった。
送っていただいた追悼集を読みながら添えられている写真を見ていたら、「よう、○○くん。元気にしているかい!」の斉藤さんの声が聞こえてくるような気がした。
齋藤さんのことで、去年こんなことがあった。趣味サークルの女性会員の一人が私に「○○さんはM電器の茨木(市)事業所にお勤めだったの?」と。「はい、定年まで」というと「実は、亡くなった私の主人もそこに勤めていたの」と。話しているうちに、この方の口から「齋藤秀吉さんって、知っている?」という言葉が出たのでびっくり。聞いてみると、ご主人が現役の頃に部下のみなさんを家に招待したことがあって、その中に齋藤さんがおられたというのです。
「齋藤さんの物腰が柔らかく、優しそうな人柄が今でも印象に残っています」とおっしゃるのです。そして、「あの時、みなさんが帰られた後に主人が『齋藤は仕事もできるしいいやつだから、共産党でなかったらもっと出世できるのに』とつぶやいていた」といわれたのです。
この話を齋藤さんに伝えったが、残念ながら、その時にはもう齋藤さんはこの世にはおられなかった。ぜひ、奥さんにこのことを伝えようと思っていたのだが、なかなか会う機会がなかった。
今日、追悼集を送っていただいたお礼の電話をした時に、このことを奥さんに話した。そして、「この次にお墓参りされた時には、ぜひ齋藤さんにお伝えください」と。