風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

初夏の海

2014-06-24 | 趣味
ぶらりと兵庫県須磨の海を見に行ってきた。
この季節、湿気が多いせいか見渡す海も少し霞がかかったようでどんよりした感じだった。

JR須磨駅で降りて海岸をぶらぶらと須磨浦公園の方へ歩いてみた。
駅のすぐ前の砂浜では来月からの海開きを前に「海の家」の準備が始まっていた。

釣りをしている人に「どうですか?釣れますか?」と話しかけて、しばし世間話。
この人、「家はすぐ近くで、定年後17年間、毎朝、釣りか須磨浦公園の山へ登っている」という。
「この季節、まだ型は小さい」といって、キスが5~6匹入った布バケツを見せてくれた。
「少し上まで登ってみようと思っています」というと、「ケーブルもあるが、歩いてみてくだい。休憩を入れても40分くらいで登れますよ」という。

海岸沿いは眩しいくらい照り返しがきつい。ザーザーと打ち返す波を聞きながら須磨浦公園まで歩いた。
ケーブルに乗ろうか、歩こうか少し迷った。あの人が40分ならオレは30分で行けるかと、ドリンクを買って歩き出した。
道は石積みの階段で歩きやすいが、なかなか急斜面で少し歩いただけで汗がどーと噴き出してきた。シャツを一枚脱いでゆっくり登った。途中で、一度休憩しながら約30分でケーブルの到着点の展望台(第一?)に着いた。
ここから上にも、ゴンドラや徒歩で登れるのだが、この暑さでは無理は禁物とちょっと弱気に。

   
ベンチに腰を下ろして帽子、靴、靴下を脱いだら、汗ばんだ体に涼しい風が心地よい。
冷たいビールが飲みたくなったが、自販機はソフトドリンクだけ。残念・・・。
ここからは、正面には淡路島、左前方には関空がある泉南地域、右には明石大橋が眺める。
40分くらいだろうか、眼下に広がる瀬戸の海を往き交う船をボーと眺めていた。
暫く、いや、一年ぶりの海だったが〝やっぱり海はいいなー〟

海 杉田二郎



想い出の地に米軍基地が

2014-06-17 | 社会
         ※手前の集落が袖志で少し突き出た辺りが基地建設の予定地

近畿で初めて米軍の(レーダー)基地が建設されるということで、京都府の京丹後市丹後町袖志が、関西地方のニュースでもよく取り上げられています。

ここ京丹後の袖志は、私にとって青春時代の想い出の多いところなのです。
二十歳ごろに、職場の仲間たちとバスを借り切って、数年間、ここの民宿に2泊3日で海水浴に来ていたのです。
昼は、砂浜で相撲、ビーチバレー、泳げば、経ヶ岬までの遠泳、潜ってサザエ獲り、夜は砂浜でフォークダンス、サザエ・アワビのバーベキュー等々、3日間、朝から晩までクタクタになるほど青春を楽しんだものです。

袖志の集落は海岸沿いの道路際と少し山手に向かって三日月型に数十戸の家屋が並んでいます。海辺の村ですが漁港はなく、もっぱら、集落の裏手から山の上に向かって開墾されてきた棚田で細々と米作りで生計を立ててきたたところです。
今では、ここの棚田が「日本棚田100選」の一つに選ばれて、多くのカメラマンが訪れるようになっています。

私らが海水浴に行っていた昭和40年頃は、村には店らしい店もなく、看板も出ていない何でも屋のような店が一軒あるだけでした。若い人たちはみんな都会に出て行き、老人が多く、文字通り寂しい海辺の村でした。
集落の裏手の高台にお寺があり、当時、朝早く起きてここまでよく散歩しました。ここからの眺めは、眼下の砂浜の向こうに日本海が広がり、左手の海岸が少し出っ張ったところに文殊さまの祠、右手に経ヶ岬灯台という美しい風景をよく見たものです。
あれから50年近く経ちますが、今でも、あの頃の美しい袖志の風景とともに、楽しかった青春時代の想い出が昨日のように蘇ってきます。

今度、ここに米軍のレーダー基地ができると聞いて、こんな美しい村に何で戦争のための基地を造るのかと、心の底から怒りが沸いてきました。
いろいろな報道を見ていますと、村の人らは決して基地建設を喜んで受け入れていないようです。ただ、過疎の村ですから、基地建設によるさまざまな補助金を充てにしないと村の存続そのものがたちいかないと、仕方なく受け入れたという人も多いようです。

自民党政権は、〝札束で頬をたたく〟常套手段で、基地反対の声を封じ込めたのでしょう。このような卑劣なやり方にはほんとうに腹が立ちます。
安倍政権の日本を戦争のできる国しようとする集団的自衛権行使容認は、美しい日本列島を戦争の基地に変えようとするもので、何としても食い止めなければなりません。

※「京丹後(京都府)米軍レーダー基地問題を考える」のHPはここから。

酔えない酒

2014-06-15 | 日常

家を出て一人住まいしている次男から父の日のプレゼントが届いた。
大そうな包装がしてある焼酎セットだった。陶器のグラスも2個付いていて、一見高そうな感じ。
〝貧乏暮らしをしているのに無理せんでもいいのに〟と思い、ネットでどれくらいか調べようとしたがやめた。

高かろうが安かろうが、息子の気持ちに素直に感謝しておこうと。
「サンキュー、美味しくいただきます」とメールをしたら、「つまらないものですが、呑んでください」と返信がきた。

早速、今晩に呑んでみようと思う。じっくり味わいながら。そして、貧乏暮らしをしている息子のことを、また思い出しながら・・・。

党派を、宗派を超えて

2014-06-14 | 社会
安倍首相と自民党は集団的自衛権の行使容認の閣議決定に向けて暴走を加速させ、情勢は急を告げています。
国民多数の批判や不安に耳をかさず、国会でのまともな議論もなしに、与党だけの密室協議をつうじて、一内閣の判断で強行するなど、憲法破壊のクーデターとよぶべき暴挙に各界から抗議と怒りの声が上がっています。

中でも注目される一つに、真宗大谷派(東本願寺)が、6月10日、宗派の最高議決機関の宗議会(僧侶議員で構成)において、「集団的自衛権の行使容認に反対する決議」が全会一致で可決したことです。
以下、「決議」を真宗大谷派のホームページより紹介します。

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集団的自衛権の行使容認に反対する決議

 今、日本政府は、憲法を「改正」せずとも、その解釈を変更することで、これまで禁じられてきた集団的自衛権の行使を可能にする動きを加速させております。集団的自衛権の行使が容認されれば、日本人が国外で人命を奪い、奪われるという事態が現実となりかねません。このことは、戦後、日本が堅持してきた戦争放棄の国是を捨て去ることです。

 私たち真宗大谷派宗議会は、この度の集団的自衛権の行使容認への動きに対して、深い悲しみと大きな危惧を覚え、強く反対の意思を表明するものであります。

 戦後50年にあたる1995年、私たちは、過去において、仏法の名を借り戦争に協力してきた自らを問い直し、「人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに賜った信心の智慧をもって、宗門が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまない」という「不戦の誓い」を表明いたしました。

 私たち念仏者は、地獄・餓鬼・畜生という三悪道に他ならない現実に立ちながら、浄土を願うものです。その私たちに対して、「仏の遊履したまうところ(中略)、国豊かに民安し、兵戈用いることなし」と不殺生を呼びかける教えの言葉は、三悪道たる現実に対する悲痛な叫びであるとともに、非戦への深い願いであります。その願いに応えることは、「人のいのちを奪う戦争を絶対に許さない」と言い切るところからしか始まりません。

 親鸞聖人は、念仏を誹謗する人々に対して、「念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべし」と述べられております。さまざまな意見、立場の人たちと丁寧に対話していくことをいとわず、私たちは「不戦の誓い」の具現化に努めてまいります。

2014年6月10日
                                  真宗大谷派宗議会
                            

生い立ちの景色(45) 1年遅れの新一年生

2014-06-06 | 生い立ちの景色
1962年4月。16歳の春。
去年の秋に夜間高校への進学を決意してから半年が過ぎた。
二月の入試にも何とかパスして、この春から一年遅れの新一年生になった。

仕事と両方やっていけるかちょっと不安はあるが、職場の中にもがんばっている先輩がいるので、まあ、何とかなるだろう。
入学式の前に教科書の購入など、これからの学生生活についての説明会があり、試験後初めて登校した。
クラス分けも決まっていて、オレらの学年は普通科3クラス、それと商業科が1クラスあった。それぞれ1クラス40人くらいいだったが、商業科は少し少なかった。オレは普通科だった。

説明会はクラス別にというこで、それぞれの教室に入った。一年ぶりに学校の机の前に座ってちょっと緊張した。担任の先生が短いあいさつの後に一人一人名前を呼んで出欠を確認した。
呼ばれた者が順番に立って返事をした。男女の比率はだいたい半々だったが、ちょっと驚いたのは、中に相当老けた?おっさんみたいなやつもおったこと。
3、4人が欠席してたのは、後でわかったことだが、いろんな事情でその時にすでに入学を辞退していたというのだ。

学校は、会社から歩いて15分くらいの国鉄の駅の近くにあり、仕事が4時半に終わるので、5時15分始業、終業8時50分にはわりあい都合がよかった。
授業は4時間割で一時間目と二時間目の間が給食の時間だった。公立といっても給食は有料で、ひと月毎に申し込むことになっていた。仕事で腹ペコのオレは当然、給食を申し込んだ。
帰りは、国鉄を二駅乗り、駅前に預けてある自転車で30分、家に着くのはだいたい10時前になる。

そのころのオレは、家の裏の畑に建っていた6畳と4畳半二間の離れ屋(便所しかない小屋みたいなところ)で、親父とおっ母ァの三人で寝起きしていた。
農家の夜は早い。オレは、夜遅く帰って風呂や飯のことで母屋で暮らしていた兄夫婦らに負担をかけたくなかった。おっ母ァも口には出さなかったが、そのよう思っていることはオレにも十分わかっていた。
そんなことで、家に帰ってからは母屋に行かないように、風呂は仕事が終わった後に会社で入るようにして、晩飯については、おっ母ァがご飯は弁当箱に詰め、おかずも皿に盛って離れ屋に持ってきてくれていたを食うことにした。
そんなことで、オレの夜間高校一年生の生活が始まった。

会社の方は、入社して一年のオレに職場移動の話が。やっと仕事にも慣れてきたというのに・・・。