1961年7月。
先月で正社員というか本採用になり、給料も6,600円から7,300円に上がり、有給休暇ももらえるようになってちょっと安心だ。
それにしても、毎日が暑い。工場内には冷房はなく、ブーンという音をたてる扇風機が所々に置いてあるだけだった。多くの人の作業服が汗で濡れてベタっと背中に張り付いいていた。
7月になり、職場の雰囲気がちょっと変になってきた。初めは何でかわからなかったが、先輩のKさんやGさんの話でその理由がわかった。
それは、8月に行われる労働組合支部(組合員3000人くらい)の役員選挙で、組合員の中に「会社派」といわれる人たちと、それに反対する「反会社派」と呼ばれる人たちの対立があり、今度の選挙で、その両派が激突するというのだ。
俺は6月に正社員になると同時に自動的に労働組合員にもなっていて、先月の給料から組合費を天引きされていた。
労働組合のことは何もわからないし、関心を持っていたわけではないが、実は、俺が所属する班(職場の末端組織)のO班長さんが組合の役員をしていて、「反会社派」の人だったのだ。
ある日、帰りのタイムカードを押しに行ったところで、組合のビラを配っていたOさんに呼び止められた。
Oさんは、立候補者名が書かれているいる選挙公示を知らせる組合のビラを見せて、「今度の組合役員選挙で私と私の推薦するこの人たちに投票を頼みたいのだが」といった。俺は、このO班長の下で仕事して数カ月だったが、その控えめな感じというか優しさが好きだったので、「はいわかりました」と返事をした。
組合の「職場会」というのがあった。仕事が終わってから、職場単位の数十人の組合員が車座になって組合の資料などを話し合うのだ。この職場会、役員選挙が近づくにしたがって、両派と思われる人たちの言い合いが激しくなってきた。時には、ケンカ腰のやり合いになることもあった。「会社派」と言われ人たちの中心は班長より上の役職の職長さんだった。
俺は、内容がよくわからないこともあったが、そんなところで発言する根性もまったくなかった。ただただ両派の人たちのやり合いを聞いているだけだった。
数日後の選挙結果では、O班長らの「反会社派」という人たちが多数を占めた。G先輩やK先輩らは、「両派の役員数が縮まったので、これからが大変だ」といっていたが、俺には、その意味ももうひとつわからなかった。
新組合員のひと夏の経験だった。
先月で正社員というか本採用になり、給料も6,600円から7,300円に上がり、有給休暇ももらえるようになってちょっと安心だ。
それにしても、毎日が暑い。工場内には冷房はなく、ブーンという音をたてる扇風機が所々に置いてあるだけだった。多くの人の作業服が汗で濡れてベタっと背中に張り付いいていた。
7月になり、職場の雰囲気がちょっと変になってきた。初めは何でかわからなかったが、先輩のKさんやGさんの話でその理由がわかった。
それは、8月に行われる労働組合支部(組合員3000人くらい)の役員選挙で、組合員の中に「会社派」といわれる人たちと、それに反対する「反会社派」と呼ばれる人たちの対立があり、今度の選挙で、その両派が激突するというのだ。
俺は6月に正社員になると同時に自動的に労働組合員にもなっていて、先月の給料から組合費を天引きされていた。
労働組合のことは何もわからないし、関心を持っていたわけではないが、実は、俺が所属する班(職場の末端組織)のO班長さんが組合の役員をしていて、「反会社派」の人だったのだ。
ある日、帰りのタイムカードを押しに行ったところで、組合のビラを配っていたOさんに呼び止められた。
Oさんは、立候補者名が書かれているいる選挙公示を知らせる組合のビラを見せて、「今度の組合役員選挙で私と私の推薦するこの人たちに投票を頼みたいのだが」といった。俺は、このO班長の下で仕事して数カ月だったが、その控えめな感じというか優しさが好きだったので、「はいわかりました」と返事をした。
組合の「職場会」というのがあった。仕事が終わってから、職場単位の数十人の組合員が車座になって組合の資料などを話し合うのだ。この職場会、役員選挙が近づくにしたがって、両派と思われる人たちの言い合いが激しくなってきた。時には、ケンカ腰のやり合いになることもあった。「会社派」と言われ人たちの中心は班長より上の役職の職長さんだった。
俺は、内容がよくわからないこともあったが、そんなところで発言する根性もまったくなかった。ただただ両派の人たちのやり合いを聞いているだけだった。
数日後の選挙結果では、O班長らの「反会社派」という人たちが多数を占めた。G先輩やK先輩らは、「両派の役員数が縮まったので、これからが大変だ」といっていたが、俺には、その意味ももうひとつわからなかった。
新組合員のひと夏の経験だった。