風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

青春の「うたごえ」

2008-12-24 | 日常
 先日、1960~70年代の若い頃、青年運動や労働組合運動をやっていた仲間が久しぶりに集まった。それぞれ事業所は違ったがみんな同じ会社で働いていた仲間たちだ。
 
 お酒もだいぶ入った頃、歌声サークルをやっている人の友人たちがアコーディオンを持ってやって来てくれた。配られた歌集を開いてみたら、懐かしい曲が並んでいた。この歌も、あの歌も…。アコーディオンの演奏で2、3曲歌っているうちに気持ちは遥か40数年昔にタイムスリップ。
 
 「かあさんの歌」「しあわせの歌」、そしてロシヤ民謡の「カチューシャ」「仕事の歌」「山のロザリア」、次から次へとリクエストがあり、いつまでも続く。時間の都合であと二曲となった。俺は「心はいつも夜明けだ」をリクエストした。

 仕事を終えてみんなが組合の職場集会に集まってくる間、青年部のメンバーらが歌っていたあの頃の思い出を語りながら。
 
心はいつも夜明けだ 
作詞:永山 孝  作曲:荒木 栄

1夕陽が汚れた 工場の屋根に
 沈めば俺達ゃ 街に散らばる
 若者や娘達の 胸に火をともしに
 心にゃ夜はない いつも夜明けだ
 心にゃ夜はない いつも夜明けだ

2朝日が汚れた 工場の窓を
 照らせば俺達ゃ 職場散らばる
 若者や娘達の 胸が曇らぬよう
 心にゃ夜はない いつも夜明けだ
 心にゃ夜はない いつも夜明けだ

3夕陽は朝日は 働く仲間(そうだ今日も ガンバロー)
 やがて開ける 未来を照らす
 若者よ娘達よ 胸に誇りを持とう
 心にゃ夜はない いつも夜明けだ
 心にゃ夜はない いつも夜明けだ

 俺がこの会社に入社したのは1961年3月だ。「60年安保闘争」をたたかった先輩らの活動力は衰えていなかった。
 血気盛んだった俺も間もなく先輩たちに影響され労働組合運動に参加していった。

生い立ちの景色⑨ 女先生

2008-12-21 | 生い立ちの景色
1952年4月。6歳の春。

 今日は小学校の入学式だ。同じ村にはもうひとり入学するはずの女の子がいたが、どういう訳か入学を1年遅らすという。そんなことで、村からは俺ひとりになった。

 おっ母は朝から裏庭で髪を洗い、そのあと、嫁入りの時に持ってきたという古い鏡台の前に座り、少し化粧していたみたいだった。もちろん、今日はよそ行きの着物に白足袋だった。俺は去年の年末に買ってもらったこげ茶色のセーターに木綿の黒ズボンだ。

 一時間近く歩いて学校に着いた。校庭の端にある桜は、今年の冬が寒かったせいか、まだちらほらしか咲いていなかった。
 おっ母は知っている親らに挨拶していたが、俺はだれ一人知っているやつがおらんかったので、ちょっと心細かった。

 おっ母が俺を呼んだ。「うちの子はだれ一人知っている人がおらんのでよろしくお願いします。」と、一人の隣村の親と子に引き合わせた。俺はどう言うていいのかわからず、黙って頭だけ下げた。

 終戦年生まれの俺らは生徒が少なく、男が14人で女が18人しかいなかった。講堂での入学式は、白髪で立派なヒゲを生やした校長先生が挨拶し、そのあと、担任になる女先生が紹介された。
 式が終わり、教科書を貰うために教室に入ろうとしたら、入り口に立っていた女先生と目が合った。女先生はにっこりと笑って俺の頭を撫でた。少し白粉の匂いがした。

 眼鏡を掛けた女先生は、そんなに別嬪さんではなかったがまだ若かかった。後で知ったことだが、つい最近、苗字が変わったらしい。

 知ったやつがおらんけど、若くて優しそうな女先生だから、何とか明日から学校には行けそうだ。 

“悲鳴の電話”

2008-12-19 | 社会
 P社の同じ事業所で働いていた請負会社のA君から“これじゃ 生活できないよ”という悲鳴の電話が入った。
 
 聞いてみると、P社の生産調整(減産)でこの12月15日から臨時休業が増え、残業も3月末まで一切なくなるという話し。

 計算してみると、1月の給料は、臨時休業5日分で55,625円、残業分で46,875円、合計で10万2500円の減収になるという。「いままで、残業手当と休出手当を入れて月22、3万円あり、何とかやっていたが…」と声が小さくなるA君。

 同僚らは、「生活がたいへん。家のローンを支払っているので本当に悲惨」「忙しい時は毎日残業、休日出勤までさせられるが、暇になれば早く帰らされ、収入が大幅にダウン。その差が大きすぎ」等々。みんな口々に怒っているという。

 請負会社の上司は「受入れ企業のP社が操業短縮したので…」といい、受入れ会社は「うちは請負会社の従業員とは(雇用)関係がないので」と責任を回避する態度だという。

 「収入を増やすために他に変わりたいが、いまは辞めると行くところがない。しかし、このまま残っていたら契約更新拒否という首切りがあるかも」。A君の心配は尽きない。

 これまで、トヨタやキャノンなど、世界的な大企業はリストラで正社員を非正規労働者に代えて空前の大もうけを続けてきた。今度は少し減益になりそうだからと一斉に首を切る。みんな、生活があり、家族もいる人間だ。モノのような使い捨ては許されない。

 派遣や期間工も、そぜぞれの企業の発展のためにがんばっている。直接の雇用関係がなくても、これらの人たちの雇用と生活を守ることは大企業としての社会的責任だ。

労働相談ホットライン 012-378-060(秘密厳守・相談無料)

物忘れは相変わらずだが

2008-12-19 | 日常
 “死ぬまでは認知症になりたくない”と思っているが、どうなるかはわからない。
 認知症は、脳内出血によるものを除けば突然発症するものではなく、加齢とともにしだいに脳への血流量(酸素の供給量)が減少し、そのことが原因で脳細胞に変化が生じて起こると考えられている。

 アメリカの研究で、60歳からの4年間を、①退職後も仕事を続ける ②退職後、積極的に身体活動を行う ③退職後、ぶらぶらしている、の3つのグループに分け調査したところ、退職時には差が見られなかった脳の血流量が、4年後には③の日ごろあまり身体を動かさないグループだけが、毎年減少して行き、認知テストでも明らかな低下が見られたという。
 
 フランスの高齢者を対象に研究でも、週に2、3回ウォーキング、またはジョギングをしている人は認知テストで向上が見られたという。まあ、この調査結果は別にして、適度な運動は、老化による血行障害を防ぎ、脳への酸素供給を増やし、脳細胞の活性化に役立っていることは確かだと思う。

 退職前に家人から、「あんたはよく物忘れをする。歳を取ると認知症になるのでは」と言われて来た。本人も、“もしかしたら”と心配している。

退職後、社交ダンスを始めたおかげかどうかはわからないが、今のところ、まだその兆しはないようだ。ただ、物忘れは相変わらずだが…。 

足が、腰が…

2008-12-14 | 趣味
 12日はダンスサークルのミニパーティーと忘年会があった。メンバーは日ごろレッスンしている人たちだったので割合気楽に参加できた。

 会場の広さはもうひとつだったが、モダン・ラテンの曲が次々流れる中、3時間近く踊った。
 先輩や先生のすばらしいデモも見れたし、予定してなかった俺のスロー・フォックストロットもみなさんに披露?することができてたいへん楽しかった。

 その後、場所を移して忘年会に。普通、忘年会といえば狭い居酒屋みたいなところが多いが、この日は、披露宴をやるような部屋で、床は絨毯、天井にはシャンデリア、もちろん通信カラオケの設備もあり、ダンスも踊れる広さ。

 みなさんも(俺も)お酒が進むにつれ、楽しい会話、カラオケ、そしてダンスにと大いに盛りあがった。俺も、よせばいいのに調子に乗って、またまたダンス。2時間の宴会があっという間に終了。

 これでバイバイしょうとしたら、まだ、カラオケ専用の部屋を準備しているという。嫌いではないのでまたまた居残り参加。この部屋がまた、ラテンダンスなら踊れるくらいの広さ。「まだ踊るの?」という声がある中、カラオケに合わせてまたまたステップを踏んでしまった。

 パーティーが始まってから、7時間半、楽しい満足の時間でした。最後にサークルの発展とみなさんの幸せを祈念してバイバイした。それにしても、M幹事さん、会計は大丈夫だったのでしょうか?(足が出たのでは…)

 お酒のせいか、ダンスをしすぎたせいか、帰り道の自転車(飲酒運転はだめですよ!)、少しふらついたが、無事我が家に到着。

 翌朝起床すると足が腰がガタガタ。おかげでユキの散歩は俺が引っ張ってもらう羽目に。散歩中、たらたら歩く俺を何度も振り返っていた。
 「おっちゃん、あんまり調子に乗って飲みすぎたらアカンで~」とでも言っているように。