風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色⑯ 止まらない涙

2009-11-16 | 生い立ちの景色
1955年4月。9歳の春。

チズ姉ちゃんの結婚に反対したおっ父だったが、最後はしぶしぶ?認めたようだ。簡単な式を挙げて、いまは旦那さんの働く土建屋の敷地内にある小さな借家に住んでいた。

赤ちゃんが生まれるというので、おっ母について荷物持ち役でチズ姉ちゃんの家に行くことになった。大きな風呂敷包みを持って一時間ほど歩いて着いた時には、姉ちゃんはしんどそうに寝ていた。同じ借家に住む隣のおばさんが来てくれていて、「産婆さんがいうには今夜あたり。何か手伝うことがあったらいってくださいね」といって帰っていった。おっ母は、「お世話になります」と何度も頭を下げていた。

夕方になり、旦那さんが仕事から帰ってきた。おっ母は簡単な晩飯を作ったが、姉ちゃんは気分が悪いといって食べなかった。そうこうしているうちに、姉ちゃんが苦しみだした。おっ母は旦那さんに、「すぐ産婆さんを呼んできて」といった。旦那さんは慌てて自転車で家を飛び出していった。まもなく、産婆さんがやって来て、姉ちゃんの様子を見るなり、「まだもうちょっとや、いまのうち湯をどんどん沸かして。それから本人さんをこちらに移して」といった。オレも手伝って姉ちゃんを布団に寝かせたまま土間に近い方の部屋に移した。

土間では隣から借りた2つの大きな釜から湯気が出始めていた。うろうろしている旦那さんにおっ母が、「あんたは近所の家に行っとって」と家から追い出した。そしてオレにも「おまえも、もう寝ろ」といった。
何時頃か、隣の部屋から聞こえてくる姉ちゃんの苦しそうな声に目が覚めた。産婆さんが大きな声で、「がんばって。もうちょっと、もうちょっと!」と繰り返している。おっ母も、「大丈夫、大丈夫」といっている。

オレは寝ているふりをしていたが心臓はドキドキしていた。それから暫くして、「おぎゃーおぎゃー」と赤ちゃんの大きな泣き声が聞こえた。産婆さんが、「元気なぼっちゃんやで。ようがんばったなあ」といっている。少し開いた襖の向こうに姉ちゃんの手を握りながら泣いているおっ母の姿が見えた。

オレの心臓のドキドキはちょっとづつ収まってきたが、今度は何でか涙が出てきて止まらなかった。

子持鮎の甘露煮

2009-11-07 | 趣味
天気の良さに誘われて、友人と琵琶湖の湖西方面にサイクリングに出かけた。自転車2台をばらして車に積み込み、JR湖西線の「志賀駅」まで。そこで自転車を組み立て、いざ出発。

時期的には、北の比叡・比良山を超えてくる季節風“比叡降ろし”が始まる頃なのに、今日は風もなく湖面も穏や。“きひゃー、気持ちいいー”といいながら、湖岸沿いの車もほとんど通らない細い生活道をのんびり北上。

途中、鯉釣りをしていた地元の人と暫しおしゃべり。3人で7~8本の竿を出していた。「一日に1~2匹釣れる。時には、1メートルくらいのも」ということだった。

行き先は決めていなかったが、途中休憩を入れながら2時間半ほど走り、高島市新旭の“風車村”に着いた。以前、車で行ったことがあり、温泉があるので楽しみにしていたが、「3年前に閉鎖した」という、残念。

売店に琵琶湖名産「鮒ずし」があった。10切れくらい入って1200円。少し高いようだが、「せっかく琵琶湖に来たのだからこれを」といったら、友人は手を振って「それはダメ」と。オレも食える自信がなかったので、とりあえず、「子持鮎の甘露煮(5匹入り)」にした。それと、地元の人が作ったという赤飯を一パックづつと、350ml(ノンアルコール)の缶ビールを2つ。

人も少なく、コスモスがきれいに咲く傍のベンチに腰を下ろして“カンパーイ”。早速“鮎の甘露煮”を頭からガブリ。うまいーッ、甘くなく辛くなく味は抜群。またビールによく合うこと。5匹だったので、体の大きいオレが3匹食った。友よ申し訳ない。赤飯も、スーパーのより倍くらいの量でモチモチ。(もしや新米のもち米だったのでは)アズキも地元産で抜群の香り。満足!満腹!

往きに会った鯉釣りの人がまだ頑張っていた。「釣れましたか」と聞くと、「釣れたよ。これから日が暮れるまでが勝負。持って帰るか」といってくれたが、今回は遠慮した。

日焼けで火照った頬にあたる風が少し冷やっこくなってきた。きらきらと輝く湖面を見ながら最後のペダルを踏んだ。帰りは少し疲れたが、約60kmの気持ちのいいランだった。

映画「沈まぬ太陽」

2009-11-03 | その他
映画「沈まぬ太陽」を観にいってきた。
原作者の山崎豊子は、「この(小説の)映像化なしに私は死ねない。墜落事故のある遺族を取材したときに3年分の涙を流した」そうだ。

監督の若松節朗は、「今、こういう映画を作らなければいけないと思った」「涙ながらの撮影でした。(事故で亡くなった)520人の魂を背負ってやらなければ、と言い聞かせながら」やったと。そして、主演の渡辺謙は、「ぜひ主人公の恩地役をやりたい」と原作者に自ら願い出たそうだ。

途中休憩を挟んだ3時間半近くの大作だったが、正直を言うと“何か物足りない”というか、“よかったー!感動したー!”という感じにならない。何でか?と、鑑賞後一週間、いろいろ考えているのだが未だにその答えが出てこない。もちろん、原作者をはじめ、この映画の製作に関わった人らの心意気は伝わってくるのだが…。鑑賞されたみなさんのご感想をお聞かせください。

※主人公「恩地元(おんち・はじめ)」は元日航労組委員長であった故小倉寛太郎さんがモデル。この主人公の名前について、原作者は、「大『地』の『恩』を知り、物事の根源(『元』)にたって考えるという意味を込めた名前」と語っている

※主人公のモデルになった小倉寛太郎さんが母校である東大の後輩たちにに語るサイト「私の歩んできた道」(人間として信念をつらぬくということ…駒場からナイロビまで~」もご覧ください。