風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

決断の時が

2010-08-30 | 日常
PCの不具合が故障だということが判明。メーカーは“修理代金が新規購入より高くなるかも”といつもの“脅し文句”をいう。

迷ったが、とりあえず修理ということで手続きを進めている。ただ、見積もりがどれくらいになるかによって、新規購入という選択になるかも。

どちらにしても、家人にそこそこの援助をお願いすることになる。まだいっていないが、家人もこのところの猛暑つづきでイライラ気味のようだ。こんな時に切り出せば、こころよい返事はほぼ期待できない。

少し涼しくなって機嫌のいい時を見計らってと思っている。そのためにも、この酷暑が早くおさまってくれることを願うばかりだ。

またまたPCが…

2010-08-27 | 日常
この夏の初めにダウンしたPC、立ち直ったと思っていたら、またまたダウン。
寿命か、それとも連日の猛暑のせいか?

きょう息子のPCを借りてこの記事をUPしています。
という訳で、しばらくの間UPをお休みします。

“紅とんぼ”

2010-08-09 | 趣味
オレが通っているカラオケスナックが、この9月いっぱいで店じまいするという。

先週、店に入ってママの「いらっしゃい」の声を聞いた時に、???と思った。ママの顔がいつもと違っていた。カウンターに座り、いま入ってきたドアの方をふり返った時に、その訳がわかった。

ドアの内側には、“お客様へ”“皆さまに可愛がっていただきましたスナック○○は、9月末日をもちまして…”の張り紙が。
少し前にママからはそのような話を内緒で聞いてはいたが、いよいよかと。

オレがこの店に行くようになって1年くらいか、そんなに「常連」さんでもないが、週に1回くらいは通ってきた。
ママはあまり美人でもなかったし、カラオケの音響もそんなに良くはなかったが、気楽さが一番だった。

「店をつづけながらの治療も考えたけど、無理といわれた」と。「しばらく治療に専念し、治ったらまた、小さな居酒屋でも…」と寂しくいう。
じっと聞いていて、なにか励ます言葉をと思ったが、オレの本当の気持ちを表す言葉が見つからず、「まだ若いんやから、まずからだを治してからや」と、ありっきたりのことしかいえなかった。

ママが、「ヤマちゃん、唄ってよ!」とマイクを渡した。いつもなら、すぐ唄いだすオレだが、この時ばかりはちょっと戸惑った。なにを唄おうかと。
こんな曲を唄ったらどうかと思いながら、ちあきなおみの「「冬隣」を唄った。この日は、オレ以外に一人のお客さんがいたが、その人は唄わないというので、オレは、「ママも唄ってよ」といった。ママは気持ちを押えながら、時々音程を外しながら、努めて明るい歌を選曲した。

次にオレは、同じちあきなおみの「紅とんぼ」を、歌詞にでてくる駅名をこの店のすぐ近くの私鉄駅に変え、店の名前もこのスナックの名前に変えながら唄った。

そして最後に、「ママ泣かんといてや」といって、天童よしみの「泣かへんわ」を唄った。
唄いながらそーとママの横顔をみたら、やっぱり泣いていた。

生い立ちの景色⑳ 首切りとグローブ

2010-08-08 | 生い立ちの景色
1957年12月。11歳の冬。

イサム兄ちゃんが、隣のおっちゃんの口利きで3年前から大企業の湯浅電池で臨時工として働いていた。
ところが、このところの不景気で、会社が首切りをするらしい。「年末に首切りがあるかも。おれら臨時工やからまっ先にやられる」といっている。おっ父もおっ母も心配しているようだ。

25日の給料日、きょう首切りの名前の発表があるという朝、兄ちゃんは元気なく家を出ていった。
夕方、家族みんなが心配して待っているところにイサム兄ちゃんが帰ってきた。寒い中、自転車で急いで帰ってきたのか、ハアハアといっている。「オレ、名前呼ばれんかったわ」と大きな声で。

おっ母もおっ父も、「よかったのー」とえらく喜んだ。オレもほっとした。というのは、イサム兄ちゃんが、「今度、給料をもろうたらグローブ買ったるからな」といっていたからだ。もし、首を切られていたら、グローブどころやなかったからだ。

兄ちゃんが「ホイ、コレ!」と紙の袋に入ったグローブをオレに渡した。早速、まっさらなグローブを左手にはめてみた。ずしりと重たかった。家にあった軟球を右手に持ち、2、3回ぽんぽんとグローブに投げ込んだ。やっぱり本物や、ぜんぜん痛くない。
「兄ちゃん、おおきにー!」というたら、「首切られんかったからなあ」といってにやりと笑った。横からおっ母が、「大事にしなあかんで!」といった。

その晩、布団に入ってからもかなか寝付かれずにグローブを手にはめて右手のげん骨をボール代わりにぽんぽんとやっていた。
次の朝、まだ外は暗いのに目が覚めた。そーと枕元のグローブをとって布団の中で手にはめてみた。そしてもう一度、「兄ちゃん、おおきにー」とつぶやいた。

首がつながって安心したのか、横で寝ているイサム兄ちゃんはグーグーといびきをかいていた。

工兵隊跡

2010-08-07 | 社会
オレが生まれたのは終戦6か月後だから、もちろん戦争のことは何も知らないが、50軒ほどの村の南端から数百メートル離れたところに旧工兵隊の兵舎跡があった。

その兵舎を改造したところに3所帯ほど住んでいた。オレが小学生のころ、その中に一年上のやつがおったので時々遊びに行っていた。

工兵隊というのは、道路や橋などを造ったり修復を専門にする兵隊で、親の話では、「淀川での真冬の訓練でボートから突き落とされていたやつがぎょうさんおった」「年に何回か、爆破によって魚を捕って、それを兵隊の食料にしたり、余ったら村の人らに配っていた」そうだ。

また。川向いの枚方には砲弾を作っていた工場(後のコマツ製作所)があって、終戦間近にそこが攻撃され、貯蔵していた爆弾が次つぎ破裂して、大きな地響きとともに炎が上がり、煙が対岸のオレらの家の方までやってきたそうだ。

戦後、その兵舎の大部分は解体され、廃材やら橋(仮橋)などを造る機材などが村の人らに払い下げになり、オレの家にも兵隊色(灰緑色)のペンキを塗ったそれらのものがあった。

納屋を改修する時に、外側のペンキを削り落としそれらを使った。おっ父は、「軍隊が使うものはみんな一級品や。橋などに使うものやから、水に強い木を使っている」といっていた。

お盆用の買い物に行ったときに、商店街の入り口などに白衣を着て義足や義手をつけた傷痍軍人の人がアコーディオンを弾き軍歌を歌っているのをよく見かけた。国道をアメリカ進駐軍のジープが長いアンテナを立てて走っていた。

65回目の暑い終戦記念日を前に、脳裏に蘇ってくるガキの頃の思い出だ。