風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

生い立ちの景色60・・・親父死す

2024-07-07 | 生い立ちの景色

1968年9 月、仕事中に上司が慌てて「山本君、今、電話があってお父さんが危篤だから、すぐ帰ってくれ!」と言ってきた。課長も来て、「病院まで車で送って行くので、すぐ帰り支度を!」と言った。

親父は腰の辺りの血管に癌ができていることがわかり、ひと月近く前から入院していた。俺も含め、家族が交替で夜の添い寝に行っていた。入院してからは手術ができない状態でモルヒネで痛みだけを押さえる状態がつづいていたから、遅かれ早かれこの日が来ることは覚悟していた。病院へ着いた時は、もう意識はなく夕方に息を引き取った。72歳だった。

親父は6人目の子として俺が生まれた年に、牛車から振り落とされる事故が原因で足と手に障害があった。そのことで、家の百姓仕事は、もっぱら母親と長男(17歳だった)がやって来た。俺には、親父と何処かに遊びに行ったという記憶はあまりなかった。

葬儀等は無事に終わり、ほっとしている間もなく、今度は遺産相続でちょっともめ事が起こった。


生い立ちの景色59・・・仕事もラグビーも

2023-08-27 | 生い立ちの景色

1967年8月。この年の2月で二十歳になり、酒もたばこもOKとなった。自治体主催の成人式に参加したが、それほどの感激は無かった。入社時(15歳)に157センチだった身長は18歳の時には176センチになり、その後の伸びは止まったようだ。

テレビ製造工場に就職したのに、入社以来のこの5年間余は電気とは関係のない仕事ばかりだった。ところが、テレビセットのキャビネットを作る仕事が下請けに出されることになり、所属していた職場がまたまた無くなり、職場移動になった。

移動先の職場では、テレビセットの心臓部に属するシャーシーの電気調整・点検の作業についた。ただ、電気関係の知識がほとんどなかったので、この夏の2か月間の休日の土曜日の午前中は、電気の一からテレビの修理までを学ぶ講習会(もちろん無給)に参加した。その意欲を買ってくれたのか、半年後からは一部テレビの修理を含む仕事につくことになり、やりがいを感じながら日々を送っていた。

職場には、工場のラグビー部の主将のYさんがいた。ある日、Yさんから「君は体格がいいから、ぜひ、ラグビー部に入ってくれ」「この秋に社内の交流大会があるが、メンバーが足りない。」と言われ、「ルールも何も知らないし・・・」と躊躇していると、「明日から仕事が終わったらグランドに来てくれ。靴もパンツもシャツも用意しておくから」と。仕事での先輩でもあるYさんからの頼みだから断ることもできず「はい。わかりました」と返事をした。大会まで日にちがないので、仕事後、暗くなるまで週に2回の練習が始まった。

9月、大阪万博が閉幕した。延べ入場者数約6422万人だったそうだが、俺は一回も行かなかった。


生い立ちの景色58・・・新たな職場で

2021-05-15 | 生い立ちの景色

1967年4月。小型テレビとカラーテレビを作っていた我々の職場が無くなるという噂が広がった。火の無いところには煙は立たずで、噂は本当だった。総勢200人くらいいた職場が閉鎖され、所属して人の多くは同じ構内の他の部署に配置転換されることになった。俺はテレビのキャビネットを作る職場に移動した。

キャビネットとはテレビセットの箱で金属製と木製があった。配属されたのは木製の部署だった。幅70㎝、長さ3メートルくらいの合板に電動バフで研磨して箱の天板・側板のそれぞれの長さに切り落とす。次に、それぞれの板の接合部になるところに溝を削るのである。

なかなかの力仕事だった。手袋はもちろん、木の粉塵が多いので、帽子・マスク・防護メガネの完全武装?だった。もちろん、冷房などなかったので夏は背中まで汗びっしょりだった。俺は生まれつき?こまこましたことが性に合わなかったので、男らしいこんな仕事が好きだった。職場の班も小じんまりしていて、みんなと和気あいあいと楽しい職場生活を送った。終業後は、更衣室にあった風呂に入り、さっぱりして帰ることが習慣になった。

職場は変わったが民青同盟の青年運動は続けていた。民青新聞を同盟員に配ることも俺の任務になっていた。同盟員に対する会社の攻撃も激しくなり、残念だが退職したり同盟を去っていく仲間も出てきた。

同じ同盟員で隣の職場の年下のTさんと付き合うようになった。

東京では美濃部革新都知事が誕生した。


生い立ちの景色57・・・ステレオを買う

2019-11-29 | 生い立ちの景色

1966年12月。年末の賞与の一部を頭金にして、月賦でステレオを買った。もちろん社内販売のNメーカーのものを。買うことを職場の先輩に話していたら、「俺のステレオを買わないか?安くするよ」と言われたが、断って新品を購入することにした。

会社から帰ると、居間に注文したステレオが置いてあった。家族には言っていなかったので、電気屋が運んで来た時はびっくりしたらしい。早速、この日、買って帰ったドーナツ盤のレコードをかけて家族に聞かせた。「この世の果てに」(The End Of The World)という曲だ。なぜこのレコードか?・・・その頃流行っていて、ラジオからよく流れていて少し英語で歌えるようになっていたから。

次の日、土曜日で休みだったので、改めてステレオを明るいところで見てみると、新品にしてはどうも薄汚く?あちこちに小さなキズがある?俺はピーンときた。多分だが、この機種は少し旧型だったので新品の在庫がなく、どこかの店にあった展示品を持ってきたのでは?と。電気屋にそのことを電話したら、「在庫がないので、同じくらいの値段の新型に代えましょうか?」と言う。図星だった。ひどい電気屋だ。

その後、軽音楽・映画音楽・ハワイアン・クラシックなど、賞与をもらうごとに二枚組のアルバムを一冊づつ買うようになった。休みの日に、レコードを聴きながら本を読むひと時が俺の癒しの時間だった。


生い立ちの景色56・・・初めての宝塚観劇

2019-04-03 | 生い立ちの景色

1966年、俺も二十歳になった。

村の青年団は数えの15歳の1月に入団することになっていたので、俺は2月の誕生日前の14歳で入っていた。退団は25歳だから、団の中でも中堅とういうところだった。対象者の全部が入ることになっていたが、入っていない人もいた。

青年団は毎月、村の集会所で「集会」をやっていた。全員参加となっていたが、毎回、だいたい3分の1くらいの参加だった。「集会」日は一応定例化していたが、恒例として、その年の新入団員が当日の夕方に、「今晩、青年団の集会ですよって、よろしゅうお願いします」と各団員の家を周ることになっていた。集会は、議題がある時はそれを話し合うが、特段、議題のない時は世間話で終わっていた。

年間の主な行事は、正月2日の新入団員の歓迎と退団者への慰労を兼ねた新年会、そして春の花見と秋のだんじりの掃除と祭り当日の提灯立てくらいだった。ある時の集会で、一人の団員から「花見以外にもっと違うレクレーションを」という話がでた。その意見を言ったのは、村で土建屋をやっていた家の女の人で、ちょっと上品なお姉さんだった。なんと、「宝塚歌劇を観に行こう。私が案内する」と言うのだ。みんなからは「ェーッ!」という声も聞かれたが、「とりあえずいっぺん行ってみよう」となった。

宝塚歌劇といえば「女の人が男役もして歌って踊る」くらいの知識?しかない俺だった。当日は、案内役の人以外は、みんなも初めてだった。劇場周辺はしゃれた街だった。入場者は女の人が多かったので、ちょっと恥ずかしい気持ちがした。

上演は二つあり、物語の筋はよくわからなかったが、その華やかさと清らかな歌声にびっくりした。帰り道、案内してくれたお姉さん団員の顔がいっそう華やかになっていて、えらく綺麗に見えた。