風・感じるままに

身の回りの出来事と生いたちを綴っています。

自転車でぶらり

2011-11-30 | 趣味
天気もよく暖かかったので自転車で近くをチャリン歩(自転車で散歩)してきました。
道順は:水無瀬川(大阪府島本町)→サントリー山崎蒸留所大山崎町(京都府)→山崎聖天(観音寺)→長岡天満宮(長岡京市)


        和歌にも詠まれた水無瀬川


      見学者が絶えないサントリー山崎蒸留所


     旧西国街道沿いにはこんな家屋も(大山崎町)


     いつ頃の建物?外張りは銅版です(大山崎町)


             紅葉の天王山


        高く聳える山崎聖天の銀杏


       八条ケ池と料亭の離れ(長岡天満宮)


             境内の紅葉1  

  
             境内の紅葉2     


             境内の紅葉3

今月のお薦め歌手:永井龍雲

2011-11-30 | 趣味

今月は「お薦め曲」やなくて「お薦め歌手」です。
永井 龍雲(ながい りゅううん)という、1957年11月4日生まれ、福岡県豊津町出身のシンガーソングライターです。
自身でも歌っていますが他の歌手への提供曲も多くあります。

私の好きな曲は次の3つです。
こんど生まれてくるとしたなら
うりずんの頃
暖簾

この中の「暖簾」は五木ひろしへ提供された曲で、五木本人もたいへん気に入っていて、彼のコンサートでは必ず歌う曲です。
わたしもレパートリーの一曲になっていて十数年前から歌っています。

4時間半の…

2011-11-30 | 趣味
ここのところいろいろあってしばらくカラオケにご無沙汰していました。
きのうは第5週目の火曜日で社交ダンスのレッスンがお休みで、午後からの予定が空白だったのでカラオケにと先週から決めていた。

「明日カラオケどうですか?」とダンス友をお誘いしたのですが、「あいにく都合が悪い」ということで、結局一人でということになりました。

一人でカラオケに?といわれるが、「練習」ならやはり“カラオケスタジオに一人で“が一番なのです。スタジオなら自分の思い通り練習できるからです。
同じ曲でもキーを変えるなどして何回でも歌えるし、十分マスターしていない曲でも他の人に気を遣わなくて練習できるメリットがあるから。

そんなことで、この日は一人で新しい覚えたての曲を含めて40曲くらいを4時間半、ほぼ休みなく歌った。喉が持つか心配したが、最後まで声が涸れることはありませんでした。料金を心配したが、コーヒー代を含めて千円とちょっと、安い遊びだ。
みんなでおしゃべりをしながら、というのもいいですが、ほんとうの歌好きの人で“平日に一人で行く”人もけっこう多いですよ。

わたしのカラオケ?歴は小学2・3年生くらいから。ラジオから聞こえてくる歌謡曲をしょっちゅう真似して口ずさんでいた。
小学5年生の頃にこんなことがあった。音楽の時間、先生が弾くピアノの横で一人ずつ歌うときに、先生から「こぶしを利かさないで普通に歌うように」と注意を受けたことも。

こんな訳で、カラオケにはまって55年?わたしはの歌好きは一向に衰える気配はないようだ。

大したことではないが…

2011-11-30 | 日常
   
     徳光和夫さん            藤原紀香さん      小田切 千さん      浅野ゆう子さん 

大したことでもないし、どうでもいいことなのだが、テレビの歌番組を観ていてちょっと気になることがあった。
一つは、テレビ東京系が27日(日)に放送した「第44回日本作詞大賞」、もう一つは29日(火)のNHKの「歌謡チャリティーコンサート」である。

なにが気になるかと言えば、それぞれの番組の男性司会者と女性司会者の身長差なのだ。
「作詞大賞」の方は男性が徳光和夫さんで女性は藤原紀香さん、一方、「歌謡チャリティー」の方は、男性がNHKアナウンサーの小田切千さんで女性は浅野ゆう子さん。

それぞれの方の身長がいくらか知りませんが、紀香さん、ゆう子さんがハイヒールを履いていることを差し引いても、はるかに女性の方が大きいのです。特に徳光さんの場合は紀香さんの肩くらいしかないのです。

いっておきますが、男性に対して女性が高いのはけしからんなどという古臭い考えは持っていませんよ。
でもでも、見た目が…???という感じは拭えないのです。

4人はそれぞれ有能で、その司会ぶりは見事ですし女性も綺麗な方なのでいうことはないのですが…。
ラジオならいざ知らず、テレビはやはり見栄えも…。

こんなことをいっていると、「もっとほかに考えることがないのか?」とお叱りを受けるかもしれません。
でも、やっぱりちょっと気になりました。

生い立ちの景色(29) 新聞配達

2011-11-28 | 生い立ちの景色
1959年4月…13歳の春。

中学生活二年目。勉強もそこそこで特にクラブ活動もなにもしない普通の毎日を送っていた。
そんな俺が、「毎日新聞」を配達していた隣村に住む丸山というおっちゃんに「オレも新聞配達させてもらえませんか」といった。丸山さんは「ええよ。夕刊だけもやってもらえると助かるわ。明日、学校が終わったら販売所に来て」といった。

晩ごはんの時にそのことをいったら、親父もお母ァも何もいわなかったのに、キョウ子姉ちゃんだけは「そんなことをしなアカンほど家は貧乏なんか。そんな恥ずかしいことはやめて!」と猛烈に反対した。

が結局、俺は3つくらいの村の50部くらいの夕刊配達をやることになった。俺のクラスには、Hという1年生の時から配達をしているやつがおった。Hは「おれは100部くらいしているが、雨の日が大変やで」といった。

それからは、毎日授業が終わったら家には帰らずにまっすぐ販売所に向かった。一日も休みがなかったので、日曜日でも3時くらいになると遊びから抜け出して配達に行く生活になった。村と村が少し離れていることもあり、自転車でも配達には2時間くらいかかった。

慣れるまでは、配達の時に知っている同級生に顔を合わすのが嫌だった。一番嫌だったのは俺の村の配達の時だった。家の前に人がいるときは、そこを後回しにして、できるだけ顔を合わさんようにした。それでも、新聞受けに入れようとした時に、表戸が開いて出てきたおばちゃんにバッタリ、「○○ちゃんやないの?」などといわれたときは最悪だった。

雨の日はやっぱり嫌だった。新聞を包む分厚い布の上からナイロンの風呂敷みたいなもので二重に包んだ。
体は濡れても新聞だけは濡らすわけにはいかない。少しくらいの降りの時は濡れながらか傘を差してやったが、きつい降りの時は親父の野良仕事用の合羽を借りた。

月末、「配達手当1700円」と書いた封筒を受け取った。うれしかった。働いて初めての金儲けだったから。
その晩に「今月はこんだけやった」と、おっ母ァの前に千円札と五百円札と百円札2枚を差し出した。
おっ母ァは「無理してやらんでもええんやで」といった。