3台のレーシングカーを見て、共通点がわかる方はなかなかのツウですぞ。
これらは1967年から1969年にかけて行われた日本グランプリに当時ニッサンのワークスドライバだった高橋国光さんがドライブしたマシンなのです。
右奥の赤いマシンがニッサンR380(1967年)、手前の白いボディに赤いウィングのマシンがR381(1968年)、そして左側の青いマシンがR382(1969年)です。
日本人として初めての世界GPレース優勝を遂げるなど二輪の世界で活躍していた高橋さん(ここは愛称の“国さん”でいきましょう)は、1964年にニッサンのワークスチームに加入し、四輪の世界に足を踏み入れました。
スカイラインGT-Rによる50勝目を記録するなど多くのマシンを乗りこなし、実力ナンバーワンといわれながらなぜかビッグタイトルに縁のなかった“国さん”。
日本グランプリもその例外ではありませんでした。
1967年は予選3位。決勝レースでは優勝した生沢徹選手のポルシェカレラ6をあと一歩のところまで追い詰めながら17周目に痛恨のスピン。一時は6位まで順位を落としますがそこから追い上げて最終的には総合2位でフィニッシュしました。
下の写真は“国さん”の乗っていたナンバー10のマシン。
カレラ6よりも速かったというだけに悔いの残るレースだったでしょう。
翌1968年はR381を駆って予選は1位。戦前の雑誌の予想でも優勝候補の筆頭でしたが、31周目にトラブルでピットに入りそのままリタイヤしてしまいました。
満を持して望んだ1969年のレースでは青いR382で予選3位。決勝レースではトヨタ7、ポルシェ917等を抑えて30周目までトップを走行するも、またしてもマシンのトラブルで次第に順位を落とし、最終的にはトップから20周遅れの総合10位に敗れてしまいました。
このように実力ナンバーワンと目されながら、決勝ではマシントラブルなどでなかなか優勝できなかったため、いつしか「無冠の帝王」と呼ばれるようになった“国さん”ですが、それから9年後の1978年に鈴鹿で開催されたJAFグランプリ(F2)で優勝し念願のビッグタイトルを獲得することになります。
その前年、1977年に行われたレースでのエピソードは“国さん”の人柄を語るあまりにも有名なものです。
あるレースで残り2ラップまでトップを走行していた“国さん”は、他の選手が乗ったマシンが事故にあっているのを見て自らのマシンを路上に停め救出に向かいました。
これを見た他のマシンのドライバーも次々マシンを降りて救出に駆けつけたため、レースはその周で中止となり、主催者側はそれまの周回のトップであった“国さん”を優勝としたのでした。
これは主催者側およびレースを戦ったドライバー全員が、“国さん”の自己犠牲的な行為を高く評価したためと言われており、現在まで語り継がれる美談になっています。
詳しく知りたい方ははこちらをご覧ください。
この中で“国さん”は「日本のレーシングドライバーも、ファンも関係者も、みんながジェントルマンだった。」と語っています。
1940年生まれの“国さん”は現在71歳、今なお自らのレーシングチームである「チーム国光」の監督を務める一方で日本カーオブザイヤー選考委員等も勤めておられます。
これからも元気でご活躍されることを願ってやみません。(“国さん”などと気安く呼んでゴメンナサイ)
ちなみに下記のYouTubeの動画(1967年の日本グランプリ)でそのときの“国さん”の肉声を聞くことができます。
YouTube「Car Graphic TV 3/5 (1967 Japan Grand Prix)」
※個人的には映像のバックに流れるThe Beatlesの「Come Together」やDeep Purpleの「Highway Star」にシビレます。
ミニカーはいずれもエブロ製、1/43スケール。
これらは1967年から1969年にかけて行われた日本グランプリに当時ニッサンのワークスドライバだった高橋国光さんがドライブしたマシンなのです。
右奥の赤いマシンがニッサンR380(1967年)、手前の白いボディに赤いウィングのマシンがR381(1968年)、そして左側の青いマシンがR382(1969年)です。
日本人として初めての世界GPレース優勝を遂げるなど二輪の世界で活躍していた高橋さん(ここは愛称の“国さん”でいきましょう)は、1964年にニッサンのワークスチームに加入し、四輪の世界に足を踏み入れました。
スカイラインGT-Rによる50勝目を記録するなど多くのマシンを乗りこなし、実力ナンバーワンといわれながらなぜかビッグタイトルに縁のなかった“国さん”。
日本グランプリもその例外ではありませんでした。
1967年は予選3位。決勝レースでは優勝した生沢徹選手のポルシェカレラ6をあと一歩のところまで追い詰めながら17周目に痛恨のスピン。一時は6位まで順位を落としますがそこから追い上げて最終的には総合2位でフィニッシュしました。
下の写真は“国さん”の乗っていたナンバー10のマシン。
カレラ6よりも速かったというだけに悔いの残るレースだったでしょう。
翌1968年はR381を駆って予選は1位。戦前の雑誌の予想でも優勝候補の筆頭でしたが、31周目にトラブルでピットに入りそのままリタイヤしてしまいました。
満を持して望んだ1969年のレースでは青いR382で予選3位。決勝レースではトヨタ7、ポルシェ917等を抑えて30周目までトップを走行するも、またしてもマシンのトラブルで次第に順位を落とし、最終的にはトップから20周遅れの総合10位に敗れてしまいました。
このように実力ナンバーワンと目されながら、決勝ではマシントラブルなどでなかなか優勝できなかったため、いつしか「無冠の帝王」と呼ばれるようになった“国さん”ですが、それから9年後の1978年に鈴鹿で開催されたJAFグランプリ(F2)で優勝し念願のビッグタイトルを獲得することになります。
その前年、1977年に行われたレースでのエピソードは“国さん”の人柄を語るあまりにも有名なものです。
あるレースで残り2ラップまでトップを走行していた“国さん”は、他の選手が乗ったマシンが事故にあっているのを見て自らのマシンを路上に停め救出に向かいました。
これを見た他のマシンのドライバーも次々マシンを降りて救出に駆けつけたため、レースはその周で中止となり、主催者側はそれまの周回のトップであった“国さん”を優勝としたのでした。
これは主催者側およびレースを戦ったドライバー全員が、“国さん”の自己犠牲的な行為を高く評価したためと言われており、現在まで語り継がれる美談になっています。
詳しく知りたい方ははこちらをご覧ください。
この中で“国さん”は「日本のレーシングドライバーも、ファンも関係者も、みんながジェントルマンだった。」と語っています。
1940年生まれの“国さん”は現在71歳、今なお自らのレーシングチームである「チーム国光」の監督を務める一方で日本カーオブザイヤー選考委員等も勤めておられます。
これからも元気でご活躍されることを願ってやみません。(“国さん”などと気安く呼んでゴメンナサイ)
ちなみに下記のYouTubeの動画(1967年の日本グランプリ)でそのときの“国さん”の肉声を聞くことができます。
YouTube「Car Graphic TV 3/5 (1967 Japan Grand Prix)」
※個人的には映像のバックに流れるThe Beatlesの「Come Together」やDeep Purpleの「Highway Star」にシビレます。
ミニカーはいずれもエブロ製、1/43スケール。