五十の手習い足払い

五十歳を過ぎて始めたブログももう何年目?
山梨に住む新しモノ好きのオヤジが自分の趣味や日々の暮らしをつづります。

墓じまい

2016年10月17日 | 日々のつれづれに
先日、友人たちと酒を飲んでいた時に、親の墓をこの先誰が面倒を見るか、という話題が出ました。

後継ぎがいなくて、他家に嫁に行った娘が、ときおり実家のあるこの町に帰っては墓の草取りとか寺への付け届けをしているが、いつまでも同じことをしていられない、というような話。
また息子がいても、遠隔地に行ったまま久しいので、今さら寺の守りなどは頼めないし出来るかどうかもわからない、というような話もありました。

核家族化が進んで、子どもが親と一緒に住まなくなるにつれ、家族みんなとお墓に行く機会も減ってしまいました。
我が家でも、遠くで暮らしている子供たちが帰るたびに一緒にお墓に行くようにしていますが、それでも家族全員で会うことすら少なくなっている現在では、なかなか実現させることはまれですね。

人口が減少しているので、相対的に面倒を見てもらえなくなるお墓の数が増えてくるのは必然ですが、最近よく耳にするのが「墓じまい」ということば。
誰も面倒を見ることができなくなるお墓の処置の話です。

先祖の供養というものは、お骨を墓に入れることではなく、ことあるごとに生前の姿を思い出すことだと、お寺の住職が良く言っています。
その意味からは、別には墓がなくてもいいような気もしますが、死後とはいえ縁もゆかりもない骨と一緒にされたり、粉にされてどこかに撒かれてしまうことを想像するのは耐えがたい気がします。
決まった場所に置かれて、子や孫に供養されるということはこの上ない贅沢なんだな、と思います。

ここ一二年で、親しかった人を何人か失いました。
今日は一日雨の日でしたが、なんだかそんなことをずっと考え続けてしまいました。


コメント (2)
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