人は簡単そうに見えるものには
つい油断してしまいます。
適度な緊張が必要とは良く言われることですが、
では、その適度な緊張とはいったいどの程度のものを
いうのでしょうか。
たしかに個人差はあるものの“適度”という点ではみな同じ。
私自身も自分に適した程度を知りたくて
練習を続けているようなもので。
さて、油断することを
もっと通俗的に言えば「なめてかかる」
という表現になるのかもしれません。
なめることは決して余裕があることではありません。
むしろ隙がある状態かと思います。
そしてもうひとつは挑戦的な心理状態について。
挑戦とと“挑戦的”なこととは
違うような気がしています。
今回の場合は“挑戦的”な状態についてです。
挑戦的になっているときには、
どうも心理的にも肉体的にも力んだ状態に
陥りやすいのではないかと思います。
先生からも再三指導されてきたことですが
「ちから」と「力み」は確かに違うと思います。
「ちから」とはその人が持ち合わせた肉体的精神的要素を
無理なく自然に協調させることで生じるものかと。
一方の「力み」とはアンバランスな状態で生じたもののことであり、
不自然な印象を与えるような力感といえるかもしれません。
能ある鷹が隠している爪は、
実は自身の心に向けられているのかもしれないと、
ふと思ったり。
謙虚であることの美徳は
己に向けられた眼差しの深さであり
強さなのかもしれません。
心を空っぽにしていれば、
さまざまな思惑にも動ぜずにいられる
ということなのでしょうか。
意識は内へと向かいながらも
むしろ広がっていくような、
深く集中するほどに
開放されるような気がするというと、
一見矛盾していそうですが、
他に表現のしようもないような…。
対象の両面性を認めることで
変化に動じなくなれるということなのかもしれません。
仮に掌を返されたとしても、
もともと手には甲側と掌側があるのだから
ひっくり返ること自体は自然なこと。
そういうこともあり得ると、予め思っていさえすれば
動じることもなくなるような気がします。
もしかすると、なめたり挑戦的な状態にあるときは
こうした予測や予想に偏り(思い込み)が生じているのかも。
詰めの甘さというのも同様のものかもしれませんね。
偏った視点から対象を見ているうちは、
本質は見えてこないということでしょうか。
ああ、耳が痛い…。
つい油断してしまいます。
適度な緊張が必要とは良く言われることですが、
では、その適度な緊張とはいったいどの程度のものを
いうのでしょうか。
たしかに個人差はあるものの“適度”という点ではみな同じ。
私自身も自分に適した程度を知りたくて
練習を続けているようなもので。
さて、油断することを
もっと通俗的に言えば「なめてかかる」
という表現になるのかもしれません。
なめることは決して余裕があることではありません。
むしろ隙がある状態かと思います。
そしてもうひとつは挑戦的な心理状態について。
挑戦とと“挑戦的”なこととは
違うような気がしています。
今回の場合は“挑戦的”な状態についてです。
挑戦的になっているときには、
どうも心理的にも肉体的にも力んだ状態に
陥りやすいのではないかと思います。
先生からも再三指導されてきたことですが
「ちから」と「力み」は確かに違うと思います。
「ちから」とはその人が持ち合わせた肉体的精神的要素を
無理なく自然に協調させることで生じるものかと。
一方の「力み」とはアンバランスな状態で生じたもののことであり、
不自然な印象を与えるような力感といえるかもしれません。
能ある鷹が隠している爪は、
実は自身の心に向けられているのかもしれないと、
ふと思ったり。
謙虚であることの美徳は
己に向けられた眼差しの深さであり
強さなのかもしれません。
心を空っぽにしていれば、
さまざまな思惑にも動ぜずにいられる
ということなのでしょうか。
意識は内へと向かいながらも
むしろ広がっていくような、
深く集中するほどに
開放されるような気がするというと、
一見矛盾していそうですが、
他に表現のしようもないような…。
対象の両面性を認めることで
変化に動じなくなれるということなのかもしれません。
仮に掌を返されたとしても、
もともと手には甲側と掌側があるのだから
ひっくり返ること自体は自然なこと。
そういうこともあり得ると、予め思っていさえすれば
動じることもなくなるような気がします。
もしかすると、なめたり挑戦的な状態にあるときは
こうした予測や予想に偏り(思い込み)が生じているのかも。
詰めの甘さというのも同様のものかもしれませんね。
偏った視点から対象を見ているうちは、
本質は見えてこないということでしょうか。
ああ、耳が痛い…。