先日の続きというわけでもないのですが、
ちょこっと気になったことなどを
メモ代わりに思いつくままに書き出してみました。
まだ結論らしいものはみつかってません…
変えるというのは
ひとつの行為ではないかと思うのです。
自らの働きかけによって生じる変化、
そこに意志の力を感じます。
作為的というか、
これはひとつの仕業ではないのかと。
そこには目指すべきある一定の方向があり、
目的意識があり、期待される変化(結果)が
設定されているような気がします。
つまり始まりと終わりがある
限定付きの変化です。
そこには成功や失敗といった結果に加えて
評価という欲までが絡んでくるような気がします。
そして変わると言った場合は
変化そのものをひとつの現象として
とらえているような気がします。
それは例えて言えば当事者の視点ではなくて
観察者の視点なのかなぁというような気がします。
変化の方向や程度、時間も限定されないので
具体的には何をしたらよいのか
よくわからなかったりもするかもしれない。
いい方にもそうでない方にも向かう可能性があることを
暗黙のうちに容認しているのかもしれません。
なぜなら限定されていない変化は
終結や期間に左右されない時空間運動だから。
これもまた円で象徴できそうな気がします。
ということは変化の対象は万物となり
自他ともに影響し合うことに。
つまり意志の力で変えたものも
自然の流れで変わったものも
現象として見る限りは
大差ないことになるのかもしれません。
ほ~ら、また戻ってきちゃった(笑
ちょこっと気になったことなどを
メモ代わりに思いつくままに書き出してみました。
まだ結論らしいものはみつかってません…
変えるというのは
ひとつの行為ではないかと思うのです。
自らの働きかけによって生じる変化、
そこに意志の力を感じます。
作為的というか、
これはひとつの仕業ではないのかと。
そこには目指すべきある一定の方向があり、
目的意識があり、期待される変化(結果)が
設定されているような気がします。
つまり始まりと終わりがある
限定付きの変化です。
そこには成功や失敗といった結果に加えて
評価という欲までが絡んでくるような気がします。
そして変わると言った場合は
変化そのものをひとつの現象として
とらえているような気がします。
それは例えて言えば当事者の視点ではなくて
観察者の視点なのかなぁというような気がします。
変化の方向や程度、時間も限定されないので
具体的には何をしたらよいのか
よくわからなかったりもするかもしれない。
いい方にもそうでない方にも向かう可能性があることを
暗黙のうちに容認しているのかもしれません。
なぜなら限定されていない変化は
終結や期間に左右されない時空間運動だから。
これもまた円で象徴できそうな気がします。
ということは変化の対象は万物となり
自他ともに影響し合うことに。
つまり意志の力で変えたものも
自然の流れで変わったものも
現象として見る限りは
大差ないことになるのかもしれません。
ほ~ら、また戻ってきちゃった(笑