私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
私が1944(昭和19)年の秋に生を受けた実家も程近くにあるので、結婚前後の5年間を除き、
これまでの大半はこの地で過ごしている。
私は高校時代から都心を目指して、これ以降は殆ど通学したり、通勤をした。
私の幼年期に母に連れられ、新宿の『伊勢丹(』のデパート)に行ったりして、
階段の踊り場、地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。
小学校の高学年になると、地元の映画館はひとりでよく通ったりしていた。
そしてある日、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。
確か都電の運賃は均一13円であったが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、
日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
高校は中野区に所在していたので、新宿を経由し通学し、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食事処でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。
そして、ひとりで映画館に立ち寄ったりしていた。
この頃に、『小田急デパート』そして『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌してた。
私は読書も好きだったりで、神保町の古本街に行ったり、
ときには映画の封切を求めて、日比谷の映画街も通ったりしていた。
東京オリンピックが開催される数年前の出来事である。
大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、
新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は名画が上映して折、私なりに欠かせない映画館となっていた。
東京オリンピックの開催していた時、京橋の近代美術館に於いて、
日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、日参したりしていた。
映画以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
新宿御苑を散策したりした。
その後、大学を中退し、芸能専門学校のシナリオ科に通った頃は、
銀座の松坂屋の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。
そして映画、文学青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と叔父など云われ、
根拠のない自信ばかり過ごしてきたので、通常の社会人に戻る決心をした。
この当時は高度成長期であったが、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむ得なく、コンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とか大手の企業に中途入社できたのは、25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。
ある大手の音響・映像メーカーに入社直後、
現場を学べという指示に基づき、横浜の新子安にある工場の商品部に配属され、
まもなく分離独立した新レコード会社に転属させられた。
その後、翌年の1971(昭和46)年の早春に本社に異動し、
赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角に通いはじめた・・。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、おしゃれな高級店であったので、
私は喫茶店を利用できる程度であった。
赤坂は銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身としては、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。
そして数ヶ月後に、本社が六本木に移転したので、1992(平成4)年までの20年、
私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
1971(昭和46)年の5月に本社が六本木の所在となり、四丁目から百メートル内のビルが勤務地となった。
四つ角に『誠志堂書店』、『アマンド』、『三菱銀行』があり、最寄には中華料理の『楓林』があった。
そして都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、日本料理の大衆化の『正直屋』、
イタリア料理の『カーディナル』などの小料理店が数多くあったりした。
喫茶店に関しても洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があったが、
『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。
私はレコード店の『WAVE』、本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
私は1972(昭和47)年頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら聴いたり、
或いは水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
そして渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。
こうした中で、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などから業務提携の関係で数年通ったりした。
この後、1992(平成4)年の5月過ぎに、レコード会社の合併により、
渋谷の外れの勤務となり、私が20代の後半、パルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだり、
東急の文化村を知ったりした。
私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。
私は普通のサラリーマンとして、当然ながら自身が支払うので、
シティ・ホテルは『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した事はないが、
駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには男の子であるので、風俗店に行ったりしていた。
このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、
定年退職後、都心の人混みに疲れたせいか、或いは齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がなくなっている。
ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、登山の専門衣料店で買物はするが、
帰路の自宅の最寄駅の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。
日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
一番気楽なのは、自宅の庭を眺めながら、ビールを呑んだり、
弐合徳利で純米酒の辛口を呑み、家内とおしゃべりをし、食事をするのが最良のひとときとなったりしている。
そして付近を散策したり、自宅の庭の樹木を眺めながら、季節のうつろいを享受している。
ときおり家内と国内旅行をし、その地の飾り気のない美景を教示されたり、
料理、和菓子、日本酒をほめ、観光ホテルの館内で仲居さんにからかわれたれし、
温泉に入浴したりして、その地の風土を愛(め)でるのが身も心も良薬となっている。
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私が1944(昭和19)年の秋に生を受けた実家も程近くにあるので、結婚前後の5年間を除き、
これまでの大半はこの地で過ごしている。
私は高校時代から都心を目指して、これ以降は殆ど通学したり、通勤をした。
私の幼年期に母に連れられ、新宿の『伊勢丹(』のデパート)に行ったりして、
階段の踊り場、地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。
小学校の高学年になると、地元の映画館はひとりでよく通ったりしていた。
そしてある日、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。
確か都電の運賃は均一13円であったが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、
日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
高校は中野区に所在していたので、新宿を経由し通学し、
荻窪行きの都電を利用したり、或いは中央線で中野駅から登校したりした。
下校は殆ど新宿の繁華街を通り、食べ盛りであったので、
街中の食事処でカツ丼、親子丼、ラーメンを午後の3時過ぎに食べることが多かった。
そして、ひとりで映画館に立ち寄ったりしていた。
この頃に、『小田急デパート』そして『京王デパート』が開業されたりし、
特に新宿の西口は激しく変貌してた。
私は読書も好きだったりで、神保町の古本街に行ったり、
ときには映画の封切を求めて、日比谷の映画街も通ったりしていた。
東京オリンピックが開催される数年前の出来事である。
大学に入学してからは、映画鑑賞に没頭していたので、
新宿、日比谷の映画館を中心で鑑賞していたが、
池袋の『人生座』と銀座の『並木座』は名画が上映して折、私なりに欠かせない映画館となっていた。
東京オリンピックの開催していた時、京橋の近代美術館に於いて、
日本映画の昭和初期からの名画特集を上映していたので、日参したりしていた。
映画以外は、新宿の『紀伊国屋書店』、このビルの中にある喫茶の紅茶専門店を利用したり、
新宿御苑を散策したりした。
その後、大学を中退し、芸能専門学校のシナリオ科に通った頃は、
銀座の松坂屋の裏手のビルに教室があり、数寄屋橋から歩いたりしたが、
お金に余裕のない私は大人の街である銀座の高級店には縁がなく、
もっぱら大衆向けの店を利用したりしていた。
そして映画、文学青年の真似事の生活を過ごし、
アルバイトや随時契約の単発仕事で何とか生計を立てていたが、
30過ぎた時、きちんと家庭を持てるだけの力があるの、と叔父など云われ、
根拠のない自信ばかり過ごしてきたので、通常の社会人に戻る決心をした。
この当時は高度成長期であったが、企業の中途入社は容易ではなかったので、
やむ得なく、コンピューターの専門学校でソフト科に1年間学び、
何とか大手の企業に中途入社できたのは、25歳を過ぎた1970(昭和45)年の春であった。
ある大手の音響・映像メーカーに入社直後、
現場を学べという指示に基づき、横浜の新子安にある工場の商品部に配属され、
まもなく分離独立した新レコード会社に転属させられた。
その後、翌年の1971(昭和46)年の早春に本社に異動し、
赤坂見付駅前の東急ホテル・ビルの一角に通いはじめた・・。
この東急ホテル・ビルの2階は小売専門店が並んで、おしゃれな高級店であったので、
私は喫茶店を利用できる程度であった。
赤坂は銀座と同様に大人の街であったので、
若いサラリーマンの身としては、TBS方面の小料理店で昼食を食べたりした。
そして数ヶ月後に、本社が六本木に移転したので、1992(平成4)年までの20年、
私は六本木の界隈の空気と共に過ごした。
1971(昭和46)年の5月に本社が六本木の所在となり、四丁目から百メートル内のビルが勤務地となった。
四つ角に『誠志堂書店』、『アマンド』、『三菱銀行』があり、最寄には中華料理の『楓林』があった。
そして都の経営する大衆的な『六本木食堂』があったり、日本料理の大衆化の『正直屋』、
イタリア料理の『カーディナル』などの小料理店が数多くあったりした。
喫茶店に関しても洋菓子の『クローバー』、『貴奈』をはじめとし、数多くの喫茶店があったが、
『俳優座』のビルが新築過ぎた頃から、街は急速に変貌をはじめた・・。
私はレコード店の『WAVE』、本屋の『青山ブックセンター』に通ったり、
或いは日本料理の『美濃吉』を利用したりしていた。
私は1972(昭和47)年頃から、シャンソンに熱中したので、
銀座の『銀巴里』でコーヒーを飲みながら聴いたり、
或いは水割りのウィスキーを呑みながら『蛙たち』でシャンソンに酔いしれた。
そして渋谷にもカンッオーネを主体の店にも足を運んだりした。
こうした中で、私の勤務上、兄弟会社のようなレコード会社が原宿のピアザビルにあって、
原宿駅、表参道などから業務提携の関係で数年通ったりした。
この後、1992(平成4)年の5月過ぎに、レコード会社の合併により、
渋谷の外れの勤務となり、私が20代の後半、パルコ、スベイン坂、道玄坂を懐かしんだり、
東急の文化村を知ったりした。
私の現役時代は、中小業の会社であり、管理畑が大半であったので、
世間がよくいう社用族として、銀座の一流と称されるバー、料亭などの世界は知らない。
私は普通のサラリーマンとして、当然ながら自身が支払うので、
シティ・ホテルは『帝国ホテル』、『ニューオータニ』、『六本木プリンス』、『京王プラザ』等ぐらいしか利用した事はないが、
駅付近の商業ビル内の食事処、街中の専門料理店、居酒屋をたびたび利用していた。
そして、ときには男の子であるので、風俗店に行ったりしていた。
このように長年に於いて苦楽を共にした都心であったが、
定年退職後、都心の人混みに疲れたせいか、或いは齢を重ねたせいか、
六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、新丸ビル等の興味がなくなっている。
ときおり、新宿の『伊勢丹』、『小田急デパート』、登山の専門衣料店で買物はするが、
帰路の自宅の最寄駅の『成城学園前』の駅ビル、付近の食事処で食事をするのが、
何かしらほっとし、気楽に食べ、呑んだりしている。
日常の多くは、小田急腺の『成城学園前』、『喜多見』、『狛江』、
京王線であったならば、『仙川』、『つつじヶ丘』、『調布』の駅付近で充分と思っている。
一番気楽なのは、自宅の庭を眺めながら、ビールを呑んだり、
弐合徳利で純米酒の辛口を呑み、家内とおしゃべりをし、食事をするのが最良のひとときとなったりしている。
そして付近を散策したり、自宅の庭の樹木を眺めながら、季節のうつろいを享受している。
ときおり家内と国内旅行をし、その地の飾り気のない美景を教示されたり、
料理、和菓子、日本酒をほめ、観光ホテルの館内で仲居さんにからかわれたれし、
温泉に入浴したりして、その地の風土を愛(め)でるのが身も心も良薬となっている。
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