夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

今宵ひととき、私は『芭蕉布』の歌を心の中で唄い・・。

2010-05-07 23:12:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ2日ばかり、【つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。】と題し、
物狂いのように15回に及び投稿してきた・・。

先程、小雨降る玄関庭を観ながら、軒下で煙草を喫ったりしていた。

♪海の青さに 空の青
 南の風に 緑葉(みどりば)の

【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

と何気なしに心の中で唄っていた。

私は沖縄への思いの余情が残っていたのか、と思わず微苦笑を重ねて、

♪芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く
 常夏(とこなつ)の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)

【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

沖縄は過去幾たびか薩摩藩、その後の鹿児島県に略奪を重ねられ、
敗戦後はアメリカの軍政下におかれ、
本土復帰後は日本の政治家、官僚のずるさ、
したたかなアメリカの怜悧な国益の施策に翻弄され、
内地の日本人は見てみないふりする人が多く、
こうした劣悪な環境の中で、沖縄人は健気に、したたかに生きてきた・・。

このように旅人のような感情を心に秘め、怜悧な現実を学ぶたびに、
その時代ごとに翻弄されている沖縄の人たちに思いを深めたりしている。

♪首里(しゅり)の古城の 石だたみ
 昔を偲(しの)ぶ かたほとり
 実れる芭蕉 熟(う)れていた
 緑葉の下 我した島沖縄

【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

このように心の中で唄いながらも、無力な私は・・と思うと、
まぶたが熱く・・。

せめて今宵は、『芭蕉布』の歌に心を託して・・。


http://www.youtube.com/watch?v=HkQl5TNbO2c&feature=related
【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 唄・?】

注)《YouTube》で『芭蕉布』の数々が掲載され、最も魅了されたのを添付しましたが、
  唄われる方は無念ながら私は知りません。



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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 最終章

2010-05-07 15:42:13 | 定年後の思い
      最終章 普天間基地の移設問題の昏迷に・・。

私は恥ずかしながら政治・外交・軍事・経済なども疎(うと)く無力な身であるが、
鳩山首相の就任以来の言動に大きく戸惑いながら失望してきたが、
特に『普天間基地の移設問題』に関して、昏迷した言動に落胆してきた。

そして私はこの問題についても、疎(うと)ながら数多くを綴り、
4月10日発売の総合月刊雑誌の『文藝春秋』に於いて、
外交評論家の岡本行夫(おかもと・ゆきお)氏の寄稿文を深く精読した。
『ねじれた方程式「普天間返還」をすべて解く』と題された寄稿文であり、
具体的に課題のひとつ提示し、私なりに共感したり、多々教示させられたのである。
特に私は防衛費に伴う経費を学んだのである。

そして、過日の4日の鳩山首相の沖縄訪問の前後、
いたたまれずこのサイトに沖縄県民はもとより、国民を愚弄している鳩山首相の言動に怒りを覚えて投稿してきた・・。

そして批判することは園児でも出来きるので、国民のひとりとして無責任であり、
何とか解決策はないのかしら、と深く思い、
無謀で幼稚な内容で、5月5日に於いて、
【 私なりの『普天間基地の移設問題』、解決策のひとつの私案としては・・。】
と投稿してきた。

私は投稿した後、沖縄の本島の人びとに、
橋本政権から麻生政権までの自民党政権のくびきだった普天間問題として、
米政府、日本政府、沖縄県の考え方が初めて一定幅に収まった状態で、
日米両政府の2006年の合意で、
普天間飛行場の移設先となった米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市辺野古)の原点とするのを、
住民の方たち『住民税』『医療費』『防音費』などの無料、『転居優遇費』などを付帯条件とし、
住民投票で賛意を得る。

このような無謀な優遇策で賛意を得るのは余りにも安直すぎ、
何よりも住民の良心を踏みにじった、と反省をしたのである・・。

そして後悔を重ねながら、私のこれまでの『沖縄の思い』とは何か、と思いながら、
【 つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。】
と題して、結果としては今回で15回ばかり投稿となった。

昨夜の深夜12時過ぎに、初めて『沖縄県のホームページ』を開き、
『沖縄県財政の展望と課題』を読んだり、
『今後の財政収支の見通し ~粗い長期推計~』を見たり、
2時間ばかり考えさせられたのである。

素直に発露すれば、私の予想以上に悪化し、
ため息をしながら、暗澹たる思いになったことを告白する。

私は東京の郊外に住む年金生活の無力な身であるが、
日本を守る防衛に関しては国民ひとりひとりの問題であるので、
少なからず今後も『普天間基地の移設問題』を注視していく責務がある。

特に沖縄の諸兄諸姉の前では、役立たずの私は恥らいながら、
このサイトで私が不可解な『普天間基地の移設問題』の時は、
ときおり投稿する他しか義務を果たせないと思ったりしている。

                                  《おわり》



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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑭

2010-05-07 13:31:33 | 定年後の思い
      第13章 その後の沖縄の私の思いは・・。

もとより国際主要国は怜悧な国益に基づいて、外交、軍事、経済力などを背景とした政治が行われている今日、
中国、ロシアの大国、北朝鮮の不安定、日本の南下にまじかな台湾、そしてアジアの日本の経済航路を少なくとも配慮した場合、
日本の防衛の視点とアメリカの利権を合致した結束として、
日米の安保条約が締結されている。

そして防衛の基点が、地理学からして沖縄本島が選定されて、今日に至ったいる。


①中国が更に強国の巨大国となり、アメリカが太平洋の半分ほど撤去した国策に転じる。

②沖縄県が『琉球国』として独立国となり、中国の属国化となる。

③或いは中国が台湾を吸収合併をしたり、そして北朝鮮も温和な国に変貌し、
 東アジアの安定した状況になる。

このように今後が大きく変貌しない限り、現状のように沖縄本島の基地は存続する。


こうした思いを深めているが、沖縄が地政学の地理に於いて、全く離れた位置にあったならば、
と私は妄想を重ねたりすることもある。

たまたま2月下旬に、私達夫婦は小笠原諸島の『父島』に訪れた時、
このようなことも深めていた。

このサイトに私は【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。【2010.2.24.~3.7.】】綴ったり、
或いは旅の前に【東京から南下し、遥か彼方に無垢なる小笠原諸島があり・・。】などを投稿している。

【・・
昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云った。

そして私は、鯨(クジラ)かょ、と云いながら、ネットで検索したり、
駅前の観光案内所に置いてある旅行会社のパンフレットを頂き、見たりした。

私達夫婦は国内旅行は共通の趣味であるが、海外旅行は苦手であるので、小笠原諸島にしょうとした上で、
鯨を最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思案したのである。

そしてこの間に私は、小笠原諸島の父島などについて、
【YAHOO! JAPAN】の『地図』情報に於いて、検索したのであるが、
東京から南下し、遥か彼方の1000キロぐらいの時点に、父島があることがわかったのである。

この遥か西方には、同じような緯度で沖縄本島にあり、少しばかり驚いたりした。
そして、小笠原諸島は父島のある父島列島、母島のある母島列島をはじめ、
東方には日本の最東端の南鳥島、南下にはかの戦争で過酷な激戦地となった硫黄島のある硫黄列島、
西南方には日本の最南端として有名な沖ノ島が海上にある。

もとより小笠原諸島の父島は、同じような緯度にある沖縄本島とは、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、人口の最も多い父島さえ、
東京都小笠原村と明示されている。
このような状況下などで、交通の利便性は、
沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であるが、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸するのである。

私は後日、小笠原村の産業観光課が考案された『小笠原』の観光パフレットを頂き、
表紙には、鯨の遊泳と美麗な島の光景を背景とした写真の中に、
《 無垢なる海洋島 》と明記されていたので、思わず微笑させられ、
今回の私の表題に《無垢な》という言葉をお借りしたのである。


この間、私達夫婦はネットで小笠原諸島の父島を中核に調べたりした。

http://www.ogasawaramura.com/
☆ 小笠原村観光協会 ホームページ ☆


そして私は小笠原村の歴史、現状などを学びたくて、
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/
☆ 小笠原村ホームページ ☆

見たり読んだりして、多々教示されたのである。


結果として、定期船の程ほどのクラスの船室で往復して、
ホテルのように宿泊設備のある場所に一週間滞在するプランを作成したのである。
具体的には船中泊は往復路で2泊となり、リゾートホテルで9泊となる。
そして現地の島で、家内はもとより『ホエール・ウォッチング』を必須として、『森・山歩き』などを思案してるが、
私は秘かに南洋から観た満天の星空を何よりに期待しているのである。
・・】

【・・
        第3章  扇浦海岸の周辺を散策すれば

ホテルの目前にある扇浦海岸を散策しょう、と私達は出かけたのであるが、
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
ときより風はそよ風となり、長イスに座っていても、見飽きない情景であった。

私達は扇浦海岸の砂浜を歩き、ときおり家内は打ち寄せる波の処を歩き廻ったりした。

この後、海岸の外れのゆるい丘の南国に相応しい雑木林を歩いた後、
下り道の一角に納戸小屋が見え、ひとりのお齢を召した女性から、私達は話しかけられたのである・・。

まもなく90歳になる女性は、太平洋戦争前は硫黄島でご夫婦で農業をされて、
強制退避させられて、八丈島で移住して農業をされた後、
この父島が日本に返還された1968(昭和43)年に移住されて農業をする為に、
この地を買い求めて住まわれている。
この間、ご主人を失くされ、今は独り住まいとして、硫黄島の強制撤去による土地補償代もあり、
こうして暮らしを立てて生活をされている、と微笑しながら、
私達に話されたのである。

歴史に翻弄されながら、健気に生活されている女性に、
大変な時代を過ごされまして、と私は云いながら思わず頭(こうべ)をたれたりしたのであった。


この後、私達はホテルの近くにある『小笠原神社』を参拝したり、
『開拓小笠原之碑』、『無人島発見之碑』を見たりした後、
休憩所の道路際にある『小花作助之碑』の功績文を読んだりしたのであった。

ホテルの部屋でぼんやりとしていると、
午後5時に村役場からの時報代わりに、『椰子の実』のメロディが静かに鳴った。


私はこの夜、遅ればせながら父島の歴史を改めて学んだりした。
江戸時代の1670年に於いて、紀州の蜜柑(ミカン)船が『母島』に漂着して、
『八丈島』経由で伊豆『下田』に生還し、
島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された・・、
このような事柄に私は興味をいだいたりしたのである。

もとより母島はスペイン人が発見したという説、
19世紀に欧米の捕鯨船が父島に寄港したり、その後はハワイ人が入植したこともあるが、
学べば学ぶほど興味はつきないのである。

そして私はベランダで煙草を喫いながら、散りばめられた幾10かの星を眺めたりした。
・・】


【・・
         第12章  そよ風を海辺の休憩所で受けながら

3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。

私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。

10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。

そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。


思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。

そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。

26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。

27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。

そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。

3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。

2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。

3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。

4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。


このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。

前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。

この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
・・】

この中の一部を再掲載したが、風光明媚な情景の中、純粋なのどかな村であり、
村民の方たちは、けなげに前向きのしななやかな日常生活を過ごされていた。

ときおり私は余りにも沖縄本島と違うことに、戸惑いを心の片隅にあったことを
事実であった。



                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑬

2010-05-07 11:54:48 | 定年後の思い
     第12章 佐野眞一・著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』教示させることは・・。

このことに関しては、2一昨年の2008年12月28日に於いて、
【私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪】と題して、
私が2008年で読んだきた本の中で、氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』をベストワンに選定した理由を綴っている。


この本に関しては、このサイトに11月22日に於いて、
【佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』、読みはじめ・・♪】
と題して、投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
過日、遅ればせながら佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を本屋で見かけ、
購入したひとりである。

著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の内容を深める執念のような取材力、構成力、
何より誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量に圧倒され、
愛読しているひとりである。

http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html

私は午後から、今回の作品を読みはじめている。
作品の主旨、概要は、著作者自身がネット上で明示されているので、
無断であるが転載させて頂く・・。

《・・
  (略) このことは前章で掲載しているので、省略する。
・・》


そして、私はこの後も、このサイトに11月24日で、
【再び、佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』・・。】
と題して、投稿したのであるが、再掲載をする。

【・・
私は昨夜、10時過ぎに布団にもぐり、1時間ばかり、
佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読んでいたが、
日中の庭の手入れの疲労感の為、眠ってしまったのである。

今朝は、5時過ぎに目覚め、再び本を開き、7時過ぎまで読んでいた・・。
第一章の『天皇・米軍・沖縄県警』しか読了していないが、
やむえず本を閉じたのである。

先ほど、短くなった庭の樹木を眺めたりし、私の沖縄の原点は・・と思考したのである・・。


私はこのサイトに、【私の沖縄問題の原点・・。】と題して、
2007年6月20日に投稿している。

再掲載は少し気が引けるが、私なりの沖縄の深い思いがあるので、
つたない私なりの沖縄の思いを連載投稿する。

【・・
私の手元に、1冊の本がある。
『沖縄問題二十年』である。
この本は、中野好夫・氏と新崎盛輝・氏のお二人による共著であり、
岩波新書で1965年6月21日 第一刷発行と記されている。

この頃の私は、大学2年で中退し、映画青年の真似事をしていた時であった。

高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとわりのない問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。


この本のまえがきに書かれている、

《・・
なぜ私達がこんな本を書いたかという動機については、
私達本土の日本人は、戦後、そして現在、
沖縄が置かれている実情について、
もっとよく身近に知らなければならない、
そしてまた、我々自身の問題として考えなければならない、
いわば義務をもっていると信じるからである。
一種の道徳的責任といってもいいと思う。

こうした言い方をすることを、
最近はなにか感傷的偽善といった風に考える風潮も出ているように見えるが、
少なくとも沖縄に関する限り、私達はそうは考えない。

沖縄同胞の祖国復帰運動を語る本土日本人の声の中に、
それは「母なる本土」への復帰をねがう悲願、
「母鶏の翼の下を求める雛鶏」の願い、
というような表現を見かけることがある。

事実、沖縄返還の運動に精力を傾けている人達の中にあってさえ、である。
善意を理解するにはやぶさかでないし、
また美辞麗句としてならともかくだが、
もし少しでも客観的に、冷厳に、
本土と沖縄との過去の歴史を顧みるならば、
どんな意味でもこんな感傷的な言葉は出ないはずである。

ここで、藩制時代の島津藩が行なった経済的収奪、
更に明治期に入っての沖縄に対する差別的処遇、等々の
そういった古い歴史まで遡のぼろうとは思わない。

だが、最近、太平洋戦争末期の沖縄戦、
そしてそれ以降、サンフランシスコ条約に至る経過だけを考えて見ても、
果して私達「本土」は、沖縄に対して「母なる本土」であったろうか。


戦後日本の「奇蹟的」復興とやらにつけても、
私達は、爆撃の災禍はさておき、
とにかく本土が戦場にならなくてすんだ幸福を、
今更のように思う。

だが、それにひきかえ沖縄はどうであったか。
わずか3ヶ月の戦闘に20万近い犠牲者を生んだ沖縄戦、
しかもその半ば近くが実に非戦闘員の県民であった。
意図的にそうしたとまではいわないが、
少なくとも結果的に見れば、ある意味で私達は、
沖縄同胞の犠牲の上において、
本土戦場の不幸は免れたともいえるのではないか。


そして最後には、サンフランシスコ条約の第三条である。
沖縄同胞は、しばしば「売り渡された」という言い方をする。
県民の意志は何ひとつ問われることなく、きずいた時には、
祖国から引きちぎられ、不沈の軍事基地という運命を
背負わされていたというのである。

もし「母なる本土」であるとすれば、重ね重ね、
随分ひどい仕打ちを繰り返した母親といわなければならぬ。


正直に言うが、少なくとも私達は、
戦後の沖縄県民の間から、祖国復帰の運動が起きる等とは、予想しなかった。

歴史的な収奪、差別的処遇があった上、
更に最後に沖縄戦という犠牲を強いられた人々が、
もはや祖国に愛想をつかして、日本から離脱を考えたところで、
私達としては、到底一言もなかったからである。

だが、事実はその後まもなく強い祖国復帰への動きが、
脈々として盛り上りつつあることを知らされて、正直にいって驚いた。

これは絶対に応えなければならない義務と責任があることを直感した。
沖縄出身でもなければ、沖縄の土を踏んだこともない
《もっと正確にいえば、踏むことを許されない》私が、
柄にもなく沖縄に関心を持ち出したきっかけである。
    (略)
・・》        
以上、著作者の中野好夫氏が綴っている。

注)原文より、私は勝手ながら改行を多くさせて頂きました。


私は21歳の感受性が豊かであったので、
年長者の暖かいアドバイスを頂いたようになった。
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と観かたを教示され、
基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている現在、
沖縄、のことばを聴くと、何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
30年後の50代の初めに沖縄諸島の土を初めて踏み、
更に思いを深めたりした。

・・】

このようなことを投稿した後、昨年の10月下旬で8泊9日で、
私達夫婦は家内の母と3人で本島を周遊したり、
マスメディアの『沖縄』の記事を注視したりしてきた。

しかし、私は学者、評論家の本、新聞、テレビ、雑誌などのマスメディアしか知るよしもなかったので、
佐野眞一氏の題されたまぎれもなく『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の明示された事柄は、
予期した以上に動揺させられたのである。

そして、私は現役時代の一時時期、
沖縄の名護市出身の女性が部署が一緒だったので、
私としては何かとこの若き女性に対しては、父親がわりのような思いで、
懇親をかさねたりしたのである。

この女性の父親、母親の数10年の生活実態、これからの思いや、
この女性の幼児から近日までの軌跡を忌憚なく、話してくれたのである。
こうしたマスメディアに表面化しない話題こそ、
何より歴然とした事実であり、数多くの方たちを軌跡を積み重ねれば、
沖縄の戦後史、と思ったりしている。


私はこのような思いも重ね、
日中のひととき、再び佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の次章を、
熱中し、読み続ける予定である。
・・】


私はこの後も、このサイトに於き、11月25日で、
【佐野眞一氏に『沖縄の・・戦後史 』を教示され・・。】と題して投稿をしている。

【・・
私は11時過ぎに、晩秋の陽射しの中、郵便局、スーパーの二店を廻り、
買物や散策をした。
モミジが朱色や朱紅色、そして紅色に色合いを深めた中、歩いたりしたが、
晩秋の情景が心に染めらるようであった。

帰宅後、我家のモミジは、まだ淡い朱色であることに眺めたりした後、
午後のひととき、ここ数日熱中している佐野眞一・著の
『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読みはじめたのである・・。

私のこれまでの沖縄と奄美本島との関係を何かの本で学んできたのは、
アメリカ軍が奄美本島は山間部が多く、戦闘し占領しても利用価値が少なく、
こうした状況下で過酷な戦地から免れたこと。
その後、敗戦後の沖縄本島で沖縄人の下で、奄美人が冷遇され働いた・・
この程度の拙(つたな)い知識であった。

佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の中、
私は遅ればせながら教示されたのである・・。

《・・
軍政下の奄美はいわば日本とは”異国”となり、
鹿児島などへの渡航はすべて密航扱いとなった。
奄美住民の目はいきおい、同じ米占領下にあった沖縄に向かわざるを得なかった。

ましてや米軍基地建設ラッシュに沸く当時の沖縄は、
働く場所にもありつけず食うや食わずの状態に置かれた奄美住民にとって、
願ってもない働き口となった。

北に行けば密航者として裁かれ、
南に行けば基地ブームで一旗揚げられる。
沖縄のように熾烈な戦闘もなかった奄美を占領したのは、
安価で豊富な基地建設労働力を狩り出すため、
アメリカがあらかじめ仕組んだ高度な植民地政策だったともいえる。
・・》
注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした本書の一節を読むと、しばらく唸(うな)ったのである。

そして私は佐野眞一氏に導かれて、午後のひととき次節を読んだりしている。
・・】

その後、読了した後、氏の最後に綴られて言葉を重く受け止め、
私の旅人の感傷のような思考を複眼のような視線で、
改めて沖縄に関しても、考えさせられたのである。

この思い一節の言葉を転記すれば、
《・・
常に強者の顔色を見ながら世渡りする沖縄人の依存体質と事大主義を笑うのはたやすい。
沖縄人を育ててきたこうした風土が沖縄の”役人天国”の温床となり、
いまだにサトウキビの補助金行政にすがって時代にあわせた農政に転換できない
保守的体質を温存させてきたことは否定できない。

だが、沖縄人のこうしたパーソナリティをつくってきた背景は、
アメリカのしたたかな外交戦略の手玉にとられた日本と、
自分の勝手な都合で沖縄を思うように振り回してきた日本があったことを、
不勉強なメディアを含めて、
われわれ日本人は片時も忘れてはならない。

私は本書で、だれにも書かれたくなかった沖縄の戦後史を暴露してきた。
だが、本当に暴露しなければならない戦後史を隠蔽しつづけてきたのは、
沖縄の悲劇を他人事としてひとり繁栄を謳歌し、
世界に顔向けできない恥ずべき官僚や、
政権を突然に放り出す無責任な宰相を2人も生み出して、
いま国際社会のなかで急速に孤立化を深めるわれわれ日本人だったのではなかろうか。
・・》
注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


                                 《つづく》


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