第13章 その後の沖縄の私の思いは・・。
もとより国際主要国は怜悧な国益に基づいて、外交、軍事、経済力などを背景とした政治が行われている今日、
中国、ロシアの大国、北朝鮮の不安定、日本の南下にまじかな台湾、そしてアジアの日本の経済航路を少なくとも配慮した場合、
日本の防衛の視点とアメリカの利権を合致した結束として、
日米の安保条約が締結されている。
そして防衛の基点が、地理学からして沖縄本島が選定されて、今日に至ったいる。
①中国が更に強国の巨大国となり、アメリカが太平洋の半分ほど撤去した国策に転じる。
②沖縄県が『琉球国』として独立国となり、中国の属国化となる。
③或いは中国が台湾を吸収合併をしたり、そして北朝鮮も温和な国に変貌し、
東アジアの安定した状況になる。
このように今後が大きく変貌しない限り、現状のように沖縄本島の基地は存続する。
こうした思いを深めているが、沖縄が地政学の地理に於いて、全く離れた位置にあったならば、
と私は妄想を重ねたりすることもある。
たまたま2月下旬に、私達夫婦は小笠原諸島の『父島』に訪れた時、
このようなことも深めていた。
このサイトに私は【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。【2010.2.24.~3.7.】】綴ったり、
或いは旅の前に【東京から南下し、遥か彼方に無垢なる小笠原諸島があり・・。】などを投稿している。
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昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云った。
そして私は、鯨(クジラ)かょ、と云いながら、ネットで検索したり、
駅前の観光案内所に置いてある旅行会社のパンフレットを頂き、見たりした。
私達夫婦は国内旅行は共通の趣味であるが、海外旅行は苦手であるので、小笠原諸島にしょうとした上で、
鯨を最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思案したのである。
そしてこの間に私は、小笠原諸島の父島などについて、
【YAHOO! JAPAN】の『地図』情報に於いて、検索したのであるが、
東京から南下し、遥か彼方の1000キロぐらいの時点に、父島があることがわかったのである。
この遥か西方には、同じような緯度で沖縄本島にあり、少しばかり驚いたりした。
そして、小笠原諸島は父島のある父島列島、母島のある母島列島をはじめ、
東方には日本の最東端の南鳥島、南下にはかの戦争で過酷な激戦地となった硫黄島のある硫黄列島、
西南方には日本の最南端として有名な沖ノ島が海上にある。
もとより小笠原諸島の父島は、同じような緯度にある沖縄本島とは、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、人口の最も多い父島さえ、
東京都小笠原村と明示されている。
このような状況下などで、交通の利便性は、
沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であるが、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸するのである。
私は後日、小笠原村の産業観光課が考案された『小笠原』の観光パフレットを頂き、
表紙には、鯨の遊泳と美麗な島の光景を背景とした写真の中に、
《 無垢なる海洋島 》と明記されていたので、思わず微笑させられ、
今回の私の表題に《無垢な》という言葉をお借りしたのである。
この間、私達夫婦はネットで小笠原諸島の父島を中核に調べたりした。
http
://www.ogasawaramura.com/
☆ 小笠原村観光協会 ホームページ ☆
そして私は小笠原村の歴史、現状などを学びたくて、
http
://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/
☆ 小笠原村ホームページ ☆
見たり読んだりして、多々教示されたのである。
結果として、定期船の程ほどのクラスの船室で往復して、
ホテルのように宿泊設備のある場所に一週間滞在するプランを作成したのである。
具体的には船中泊は往復路で2泊となり、リゾートホテルで9泊となる。
そして現地の島で、家内はもとより『ホエール・ウォッチング』を必須として、『森・山歩き』などを思案してるが、
私は秘かに南洋から観た満天の星空を何よりに期待しているのである。
・・】
【・・
第3章 扇浦海岸の周辺を散策すれば
ホテルの目前にある扇浦海岸を散策しょう、と私達は出かけたのであるが、
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。
前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
ときより風はそよ風となり、長イスに座っていても、見飽きない情景であった。
私達は扇浦海岸の砂浜を歩き、ときおり家内は打ち寄せる波の処を歩き廻ったりした。
この後、海岸の外れのゆるい丘の南国に相応しい雑木林を歩いた後、
下り道の一角に納戸小屋が見え、ひとりのお齢を召した女性から、私達は話しかけられたのである・・。
まもなく90歳になる女性は、太平洋戦争前は硫黄島でご夫婦で農業をされて、
強制退避させられて、八丈島で移住して農業をされた後、
この父島が日本に返還された1968(昭和43)年に移住されて農業をする為に、
この地を買い求めて住まわれている。
この間、ご主人を失くされ、今は独り住まいとして、硫黄島の強制撤去による土地補償代もあり、
こうして暮らしを立てて生活をされている、と微笑しながら、
私達に話されたのである。
歴史に翻弄されながら、健気に生活されている女性に、
大変な時代を過ごされまして、と私は云いながら思わず頭(こうべ)をたれたりしたのであった。
この後、私達はホテルの近くにある『小笠原神社』を参拝したり、
『開拓小笠原之碑』、『無人島発見之碑』を見たりした後、
休憩所の道路際にある『小花作助之碑』の功績文を読んだりしたのであった。
ホテルの部屋でぼんやりとしていると、
午後5時に村役場からの時報代わりに、『椰子の実』のメロディが静かに鳴った。
私はこの夜、遅ればせながら父島の歴史を改めて学んだりした。
江戸時代の1670年に於いて、紀州の蜜柑(ミカン)船が『母島』に漂着して、
『八丈島』経由で伊豆『下田』に生還し、
島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された・・、
このような事柄に私は興味をいだいたりしたのである。
もとより母島はスペイン人が発見したという説、
19世紀に欧米の捕鯨船が父島に寄港したり、その後はハワイ人が入植したこともあるが、
学べば学ぶほど興味はつきないのである。
そして私はベランダで煙草を喫いながら、散りばめられた幾10かの星を眺めたりした。
・・】
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第12章 そよ風を海辺の休憩所で受けながら
3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。
私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。
前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。
10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。
そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。
思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。
そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。
26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。
27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。
そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。
3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。
2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。
3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。
4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。
このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。
前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。
この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
・・】
この中の一部を再掲載したが、風光明媚な情景の中、純粋なのどかな村であり、
村民の方たちは、けなげに前向きのしななやかな日常生活を過ごされていた。
ときおり私は余りにも沖縄本島と違うことに、戸惑いを心の片隅にあったことを
事実であった。
《つづく》
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