第5章 ときおり雪舞い降る中、奥入瀬渓流往還記
こうした中で、私たち夫婦は、蔦温泉に滞在している間、冬の奥入瀬渓流の散策を予定し、
当初は蔦温泉より11時32分発の一番バスの路線バスに乗り、
渓流の半ばにある石ケ戸の周辺を散策して、
石ケ戸を午後の2時4分発の路線バスで蔦温泉に戻る計画であった。
もとより冬の奥入瀬渓流の遊歩道に沿った路線バス、トイレも少なく、
今回の旅の往路からの八甲田山連峰のロープウェイの案内スタッフから、
遊歩道、トイレなどの閉鎖箇所もあるので、現地の方、宿泊先に確認されたら、
と教示を受けたりしていた。
私たち夫婦は確か10数年前の真冬の2月、古牧温泉に2泊3日で滞在したいた時、
この観光ホテルのサービスとして、無料の周遊バスで、
積雪の中の谷地温泉の立ち寄り湯、そして焼山の奥入瀬渓流館で自由食、その後は十和田湖までの
奥入瀬渓流の情景を観たりし、魅了されてた。
この時の奥入瀬渓流の遊歩道の近くには、積雪20センチ前後の中、
写真愛好家、絵を描かれる方、散策する愛好家などが見られていたが、静寂であった。
もとより奥入瀬渓流の景観は、多くの方を魅了させる情景であり、
私たち夫婦も現役サラリーマン時代の40代の時に、5月連休、そして夏季休暇を利用して、
北東北の周遊観光団体の旅行で訪れてきたが、私たちのような観光客でにぎわっていて、
とてもゆっくりと遊歩道を散策することはできなかったのであった。
こうしたささやかな体験もあったが、私は迷ったりしていたのである。
私は蔦温泉の館内の談話室で煙草を喫っていた時、
偶然に公衆電話の横にあるタクシー、貸切観光タクシーの料金表が掲載されていた。
たとえば、蔦温泉から石ケ戸まで3500円、蔦温泉から子の口までが5500円、
或いは貸切観光タクシーとしては、蔦温泉~奥入瀬渓流~子の口まで12000円(一時間50分)
と明示されていた。
この後、家内と話し合い、タクシーで石ケ戸、そして阿修羅の流れ付近まで利用しょう、
と思い立ったのである。
翌日の朝の10時、旅館前で私達は前日と同様に防寒着で身を固めて、
残り雪の多い冬晴れの中、タクシーを待ったりした。
まもなく、60代ぐらいのタクシー・ドライバーの方に、
『石ケ戸、そして阿修羅の流れまで・・その後は状況次第で・・』
と私はタクシー・ドライバーの方に言った。
走り出してまもなく、私が首からぶらさげたデジカメを見て、
『ご主人・・写真がお好きなんですか?』
とドライバーの方は私に言った。
このひと言が、私たち夫婦とドライバーの方との三人だけの物語のはしまりであった。
ドライバーの方は、旅行の写真専門誌に幾たびか掲載される写真を撮る名手である、
とこの後に私は知ったりした。
そして途中でタクシーを停めて、
この風景が宜しいかと思いますが、と私にアドバイスをして下さったのである。
その後も私たち夫婦に微笑みながら、道脇から渓流沿いの冬季に閉ざされた遊歩道を案内して下さったり、
私たち夫婦の記念写真まで撮って頂いたりした。
そして、何気ない会話を重ね、すっかり意気投合したかのように、
幾たびか停止し、私はデジカメで冬の奥入瀬の情景を撮ったりした。
結果としては、十和田湖の湖岸のひとつ子の口まで行き、湖岸の波打ち際の氷柱を観たり、
湖岸の樹木の根に氷柱の情景も教示して頂いたりした。
帰路も渓流の14キロぐらいの道のりを利用したが、
路面は除雪の後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で60センチぐらい、
そして周辺の樹木は雪をたたえて、ときおり雪が舞い降る情景であった。
何よりも驚いたのは、この時節に渓流の遊歩道を散策する観光客もいなく、
この長い道のりで、人影を見かけたのは自治体の職員らしい方を石ケ戸の休息所の館内に3名、
そして道路を補修管理されている方が3名だけで、
まるで奥入瀬渓流を私たち夫婦が借り切ったよう錯覚さえ感じたりした・・。
この12月中旬の時節は、もとより働いて下さる諸兄諸姉は師走の時などで、
より一層奮闘される時であり、
学生たちも期末試験、主婦の方は年末を控え何かと多忙な時、
中小業で35年近く悪戦苦闘が多い後に年金生活をしている私に許された特権かしら、と感じたりした。
そして私達は蔦温泉までの時を略歴を交わしながら楽しげに話し合ったりし、
映画の話になり、私よりひとつ齢上の方と判明し、互いに笑ったりしていた。
家内もときおり言葉を重ねて、談笑した。
旅館前に帰還した私たち夫婦に、
『後ほど・・この旅館にご夫妻の記念写真をお届けいたします』
とドライバーの方は明るい表情で言った。
二時間後、このドライバーの方は、ご自身が撮られた特選の奥入瀬の若葉の頃、
そして錦繍の頃、いずれも美麗な二葉の四つ切写真であり、
私たち夫婦の写真も備えられて、届けられた。
この世に一期一会(いちごいちえ)という言葉があるならば、
こうしたことの意味合いかしら、と私は家内と微笑んだりし、
ドライバーの方の表情、しぐさを思い重ねたりした。
第6章 旅先の読書
私は観光ホテルなどで滞在の時は、ここ10年は本を持参したりしている。
温泉で心身疲れを休めながら、日中のひとときに寝たりするが、
ときには本を開いたりし、読書の時間で過ごすこともある。
今回、たまたま持参したのは藤原正彦・著の『管見妄語 ~大いなる暗愚~』(新潮社)、
そして嵐山光三郎・大村英昭・共著の『上手な逝き方』(集英社新書)の二冊であった。
読み終わった後、やはり蔦温泉であったので大町桂月の『冬篭帖』、『蔦温泉帖』の復刻版が
この宿の帳場で販売していると思いだして、買い求めたりした。
この時に、宿の方が、宜しかったらと、一冊の本をお借りした。
『酒仙・鉄脚の旅人 大町桂月 ~作品と資料でつづる桂月の青森県内における足跡~』であり、
編集・発行者は蔦温泉の小笠原耕四郎と明記され、1995年9月3日発行と記されていた。
私が10時間ぐらいで興味を持った範囲だけ読んだりしたが、
もとより大町桂月を研究される方には欠かせない書誌であることは、
私でも瞬時で解かる深い内容である。
この本は以前は販売されていたが、在庫は少なくなり、
お借りしたのであるが、ときおり私は持参したノートに転記をしたりした。
そして、気分転換に部屋から出て、談話室に行き、
薪ストープのはぜる音を聴いたりして、大町桂月への思いを馳せながら、
煙草を喫ったりしていた。
こうした手ごたえある本がなかったならば、
全国紙より地方紙の新聞を読んだりすることが多いのである。
第7章 雪の情景の山岳道路で一路、青森市に・・。
12月18日
蔦温泉旅館に4連泊した私達夫婦は、旅館前のバス停より、
10時15分発の青森駅前行きの路線バスに乗車した・・。
車内の乗客は私達を含めてたった3名であり、私達はバスのドライバーの最も近い最前席に座り、
路面は除雪された後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で90センチ前後、
そして周辺の常緑樹の枝葉、落葉樹の枝には雪をたたえ、
ときおり雪が舞い降る情景に、幻想的な道のりが長く続き、見惚(みと)れていた。
ときおりドライバーの方が、雪の降りはじめたこの時節、そして厳冬の時期の状況を教えて下さり、
この八甲田山連峰の山間部の山岳道路の103号の情景に、
その時節ごとに思い馳せながら、私達夫婦は魅了された。
そして市内の郊外に近づくと青空が見えたり、その後は小雨となったり、
下車する頃の午後1時45分過ぎには、曇り空となっていた。
私は終点の『青森駅前』で下車する時、
『ひとつの映画を鑑賞したようで、ため息を重ねるほどの素晴らしい・・車窓からの情景でした・・』
と私はドライバーの方にお礼の言葉の代りに云った。
その後、私達は今宵の宿泊先の『青森グランドホテル』に向った。
第8章 『森林博物館』、『アスパム』、そして炭火焼ホルモンで酒宴となり・・。
私達は『青森グランドホテル』にチエックインし、指定された部屋で小休憩をした後、
駅の向こう側にある市立の『森林博物館』に行こう、と話し合ったりした。
歩きだして、まもなく冷たい小雨が降り、10分後にはたどり着いたのであるが、
この『森林博物館』は、青森産のヒバをふんだんにつかわれた豪壮な木造二階建てあり、
各展示室もゆったりとし、展示品からも多々教示された。
特に『津軽森林鉄道』に関しては、
明治時代から津軽半島のヒバ材を伐採、輸送手段として森林鉄道が活躍され、
多くの地元の方たちが、これらに従事されて、
やがて青森県、そして国に貢献されている状況が克明に理解できる。
この博物館にあえて苦言を明記すれば、
一階にある一部屋の待合談話室に暖房があるだけで、
これ以外の各展示室は、外気と同じような寒さであった。
この後、家内も寒さを感じていたので、
少し暖かい処に、と云ったりし、私達はタクシーで青森県の新たに完成した観光物産展の『アスパム』に向った。
この『アスパム』は、三角風の独自な建物で、外観からも誰しもが解かりやすく、
展望フロアーからの眺めも良く、各フロアーはそれなりに創意工夫がある。
このように観て廻ったりすると、閉館時間となり、
私達は街中の中核にある新町に向かい歩きだした・・。
夕食の食事処を探していたのであるが、
蔦温泉旅館の4連泊で山里の幸、海の幸も美味しく頂いたのであるが、
この後の旅程として、日本海の海辺の『不老不死温泉』3連泊するので、
今年の5月に三連泊した時の体験からして、海の幸が圧倒的に多かったのである。
このように迷いながら、家内と街中の食事処の看板、ネオン・サインなどを見たりしていた時、
『炭火焼ホルモン たつや』と看板を見て、立ち止まったのである。
この料理だったならば、今後も重複はしないだろう、
と私は家内を誘ったら、同意したので入店した。
店内は広く、カンター席、そして5テーブルぐらいテーブル席が見えて、
この中のひとつのテーブルに、私達は席に着いた。
『こうした店・・30年ぶりぐらいかなぁ・・・』
と私は家内に云ったりしていた。
『わたし・・初めてだわ・・』
と家内はメニューの単品料理の数々を見たりしていた。
『このメニューの右側から・・ひととおり食べてみませんか・・』
と家内は私に云ったりした。
私達は、七輪風のコンロで網の上に、注文した数々の品をビールを呑みながら頂いたりした。
そして、左側のテーブルは3名の女性グループ、奥まったテーブルに2名の女性グループで、
お互いに楽しげに談笑しているので、
私は昨今の流行の『女子会』か、と思いながら、女性は元気で明るく前向きでいいよなぁ、
と心の中で思ったりしていた。
そして、私は少しは元気のでる特効薬として、メニューに掲載されている日本酒を注文した。
まもなく素焼きした茶碗に入った酒が、テーブルに置かれたので、
私は銘柄を訊(き)いたら、『じょぱら』と私には聴こえたのである。
家内も珍しい品の数々をビールを呑みながら、頂いたりしているので、
私も幾度も『じょぱら』をお代わりし、この品も美味しいねぇ、と盛んに食べたりしていた。
そして、少し酔いを感じながら、津軽弁は解からないが、
何となく私の性格が『じょぱら』に近いかしら、と微苦笑しながら感じたりした。
(つづく)
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こうした中で、私たち夫婦は、蔦温泉に滞在している間、冬の奥入瀬渓流の散策を予定し、
当初は蔦温泉より11時32分発の一番バスの路線バスに乗り、
渓流の半ばにある石ケ戸の周辺を散策して、
石ケ戸を午後の2時4分発の路線バスで蔦温泉に戻る計画であった。
もとより冬の奥入瀬渓流の遊歩道に沿った路線バス、トイレも少なく、
今回の旅の往路からの八甲田山連峰のロープウェイの案内スタッフから、
遊歩道、トイレなどの閉鎖箇所もあるので、現地の方、宿泊先に確認されたら、
と教示を受けたりしていた。
私たち夫婦は確か10数年前の真冬の2月、古牧温泉に2泊3日で滞在したいた時、
この観光ホテルのサービスとして、無料の周遊バスで、
積雪の中の谷地温泉の立ち寄り湯、そして焼山の奥入瀬渓流館で自由食、その後は十和田湖までの
奥入瀬渓流の情景を観たりし、魅了されてた。
この時の奥入瀬渓流の遊歩道の近くには、積雪20センチ前後の中、
写真愛好家、絵を描かれる方、散策する愛好家などが見られていたが、静寂であった。
もとより奥入瀬渓流の景観は、多くの方を魅了させる情景であり、
私たち夫婦も現役サラリーマン時代の40代の時に、5月連休、そして夏季休暇を利用して、
北東北の周遊観光団体の旅行で訪れてきたが、私たちのような観光客でにぎわっていて、
とてもゆっくりと遊歩道を散策することはできなかったのであった。
こうしたささやかな体験もあったが、私は迷ったりしていたのである。
私は蔦温泉の館内の談話室で煙草を喫っていた時、
偶然に公衆電話の横にあるタクシー、貸切観光タクシーの料金表が掲載されていた。
たとえば、蔦温泉から石ケ戸まで3500円、蔦温泉から子の口までが5500円、
或いは貸切観光タクシーとしては、蔦温泉~奥入瀬渓流~子の口まで12000円(一時間50分)
と明示されていた。
この後、家内と話し合い、タクシーで石ケ戸、そして阿修羅の流れ付近まで利用しょう、
と思い立ったのである。
翌日の朝の10時、旅館前で私達は前日と同様に防寒着で身を固めて、
残り雪の多い冬晴れの中、タクシーを待ったりした。
まもなく、60代ぐらいのタクシー・ドライバーの方に、
『石ケ戸、そして阿修羅の流れまで・・その後は状況次第で・・』
と私はタクシー・ドライバーの方に言った。
走り出してまもなく、私が首からぶらさげたデジカメを見て、
『ご主人・・写真がお好きなんですか?』
とドライバーの方は私に言った。
このひと言が、私たち夫婦とドライバーの方との三人だけの物語のはしまりであった。
ドライバーの方は、旅行の写真専門誌に幾たびか掲載される写真を撮る名手である、
とこの後に私は知ったりした。
そして途中でタクシーを停めて、
この風景が宜しいかと思いますが、と私にアドバイスをして下さったのである。
その後も私たち夫婦に微笑みながら、道脇から渓流沿いの冬季に閉ざされた遊歩道を案内して下さったり、
私たち夫婦の記念写真まで撮って頂いたりした。
そして、何気ない会話を重ね、すっかり意気投合したかのように、
幾たびか停止し、私はデジカメで冬の奥入瀬の情景を撮ったりした。
結果としては、十和田湖の湖岸のひとつ子の口まで行き、湖岸の波打ち際の氷柱を観たり、
湖岸の樹木の根に氷柱の情景も教示して頂いたりした。
帰路も渓流の14キロぐらいの道のりを利用したが、
路面は除雪の後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で60センチぐらい、
そして周辺の樹木は雪をたたえて、ときおり雪が舞い降る情景であった。
何よりも驚いたのは、この時節に渓流の遊歩道を散策する観光客もいなく、
この長い道のりで、人影を見かけたのは自治体の職員らしい方を石ケ戸の休息所の館内に3名、
そして道路を補修管理されている方が3名だけで、
まるで奥入瀬渓流を私たち夫婦が借り切ったよう錯覚さえ感じたりした・・。
この12月中旬の時節は、もとより働いて下さる諸兄諸姉は師走の時などで、
より一層奮闘される時であり、
学生たちも期末試験、主婦の方は年末を控え何かと多忙な時、
中小業で35年近く悪戦苦闘が多い後に年金生活をしている私に許された特権かしら、と感じたりした。
そして私達は蔦温泉までの時を略歴を交わしながら楽しげに話し合ったりし、
映画の話になり、私よりひとつ齢上の方と判明し、互いに笑ったりしていた。
家内もときおり言葉を重ねて、談笑した。
旅館前に帰還した私たち夫婦に、
『後ほど・・この旅館にご夫妻の記念写真をお届けいたします』
とドライバーの方は明るい表情で言った。
二時間後、このドライバーの方は、ご自身が撮られた特選の奥入瀬の若葉の頃、
そして錦繍の頃、いずれも美麗な二葉の四つ切写真であり、
私たち夫婦の写真も備えられて、届けられた。
この世に一期一会(いちごいちえ)という言葉があるならば、
こうしたことの意味合いかしら、と私は家内と微笑んだりし、
ドライバーの方の表情、しぐさを思い重ねたりした。
第6章 旅先の読書
私は観光ホテルなどで滞在の時は、ここ10年は本を持参したりしている。
温泉で心身疲れを休めながら、日中のひとときに寝たりするが、
ときには本を開いたりし、読書の時間で過ごすこともある。
今回、たまたま持参したのは藤原正彦・著の『管見妄語 ~大いなる暗愚~』(新潮社)、
そして嵐山光三郎・大村英昭・共著の『上手な逝き方』(集英社新書)の二冊であった。
読み終わった後、やはり蔦温泉であったので大町桂月の『冬篭帖』、『蔦温泉帖』の復刻版が
この宿の帳場で販売していると思いだして、買い求めたりした。
この時に、宿の方が、宜しかったらと、一冊の本をお借りした。
『酒仙・鉄脚の旅人 大町桂月 ~作品と資料でつづる桂月の青森県内における足跡~』であり、
編集・発行者は蔦温泉の小笠原耕四郎と明記され、1995年9月3日発行と記されていた。
私が10時間ぐらいで興味を持った範囲だけ読んだりしたが、
もとより大町桂月を研究される方には欠かせない書誌であることは、
私でも瞬時で解かる深い内容である。
この本は以前は販売されていたが、在庫は少なくなり、
お借りしたのであるが、ときおり私は持参したノートに転記をしたりした。
そして、気分転換に部屋から出て、談話室に行き、
薪ストープのはぜる音を聴いたりして、大町桂月への思いを馳せながら、
煙草を喫ったりしていた。
こうした手ごたえある本がなかったならば、
全国紙より地方紙の新聞を読んだりすることが多いのである。
第7章 雪の情景の山岳道路で一路、青森市に・・。
12月18日
蔦温泉旅館に4連泊した私達夫婦は、旅館前のバス停より、
10時15分発の青森駅前行きの路線バスに乗車した・・。
車内の乗客は私達を含めてたった3名であり、私達はバスのドライバーの最も近い最前席に座り、
路面は除雪された後の真っ白な道、道路の路肩は除雪の雪で90センチ前後、
そして周辺の常緑樹の枝葉、落葉樹の枝には雪をたたえ、
ときおり雪が舞い降る情景に、幻想的な道のりが長く続き、見惚(みと)れていた。
ときおりドライバーの方が、雪の降りはじめたこの時節、そして厳冬の時期の状況を教えて下さり、
この八甲田山連峰の山間部の山岳道路の103号の情景に、
その時節ごとに思い馳せながら、私達夫婦は魅了された。
そして市内の郊外に近づくと青空が見えたり、その後は小雨となったり、
下車する頃の午後1時45分過ぎには、曇り空となっていた。
私は終点の『青森駅前』で下車する時、
『ひとつの映画を鑑賞したようで、ため息を重ねるほどの素晴らしい・・車窓からの情景でした・・』
と私はドライバーの方にお礼の言葉の代りに云った。
その後、私達は今宵の宿泊先の『青森グランドホテル』に向った。
第8章 『森林博物館』、『アスパム』、そして炭火焼ホルモンで酒宴となり・・。
私達は『青森グランドホテル』にチエックインし、指定された部屋で小休憩をした後、
駅の向こう側にある市立の『森林博物館』に行こう、と話し合ったりした。
歩きだして、まもなく冷たい小雨が降り、10分後にはたどり着いたのであるが、
この『森林博物館』は、青森産のヒバをふんだんにつかわれた豪壮な木造二階建てあり、
各展示室もゆったりとし、展示品からも多々教示された。
特に『津軽森林鉄道』に関しては、
明治時代から津軽半島のヒバ材を伐採、輸送手段として森林鉄道が活躍され、
多くの地元の方たちが、これらに従事されて、
やがて青森県、そして国に貢献されている状況が克明に理解できる。
この博物館にあえて苦言を明記すれば、
一階にある一部屋の待合談話室に暖房があるだけで、
これ以外の各展示室は、外気と同じような寒さであった。
この後、家内も寒さを感じていたので、
少し暖かい処に、と云ったりし、私達はタクシーで青森県の新たに完成した観光物産展の『アスパム』に向った。
この『アスパム』は、三角風の独自な建物で、外観からも誰しもが解かりやすく、
展望フロアーからの眺めも良く、各フロアーはそれなりに創意工夫がある。
このように観て廻ったりすると、閉館時間となり、
私達は街中の中核にある新町に向かい歩きだした・・。
夕食の食事処を探していたのであるが、
蔦温泉旅館の4連泊で山里の幸、海の幸も美味しく頂いたのであるが、
この後の旅程として、日本海の海辺の『不老不死温泉』3連泊するので、
今年の5月に三連泊した時の体験からして、海の幸が圧倒的に多かったのである。
このように迷いながら、家内と街中の食事処の看板、ネオン・サインなどを見たりしていた時、
『炭火焼ホルモン たつや』と看板を見て、立ち止まったのである。
この料理だったならば、今後も重複はしないだろう、
と私は家内を誘ったら、同意したので入店した。
店内は広く、カンター席、そして5テーブルぐらいテーブル席が見えて、
この中のひとつのテーブルに、私達は席に着いた。
『こうした店・・30年ぶりぐらいかなぁ・・・』
と私は家内に云ったりしていた。
『わたし・・初めてだわ・・』
と家内はメニューの単品料理の数々を見たりしていた。
『このメニューの右側から・・ひととおり食べてみませんか・・』
と家内は私に云ったりした。
私達は、七輪風のコンロで網の上に、注文した数々の品をビールを呑みながら頂いたりした。
そして、左側のテーブルは3名の女性グループ、奥まったテーブルに2名の女性グループで、
お互いに楽しげに談笑しているので、
私は昨今の流行の『女子会』か、と思いながら、女性は元気で明るく前向きでいいよなぁ、
と心の中で思ったりしていた。
そして、私は少しは元気のでる特効薬として、メニューに掲載されている日本酒を注文した。
まもなく素焼きした茶碗に入った酒が、テーブルに置かれたので、
私は銘柄を訊(き)いたら、『じょぱら』と私には聴こえたのである。
家内も珍しい品の数々をビールを呑みながら、頂いたりしているので、
私も幾度も『じょぱら』をお代わりし、この品も美味しいねぇ、と盛んに食べたりしていた。
そして、少し酔いを感じながら、津軽弁は解からないが、
何となく私の性格が『じょぱら』に近いかしら、と微苦笑しながら感じたりした。
(つづく)
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