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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

あなたはどちら?ポジティブorネガティブ診断、高齢者の私でも果敢に受診して、やがて微苦笑を重ね・・。

2016-08-23 14:23:53 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、年男のまもなく満72歳になる年金生活の私は、
ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中で、
【 あなたはどちら?ポジティブorネガティブ診断 】という見出しを見たりした。

『ポジティブ』は、この世の出来事に関して、クヨクヨせずに楽観的に思考する人であり、
『ネガティブ』は、これまで人生経験に遭遇したことを思い馳せ、到来することにも悲観的な思いで思案する人、
と何かと単細胞の私は、思ったりした。

そして診断でどうして判るのょ、と思いながら、好奇心に負けてクリックしてしまった・・。

何かしら初めて見る公式サイトの『MIRRORZ(ミラーズ) 』で、
《 あなたの心を映し出す心理テストメディア  》と明示されていた。
            

そして下段には、《・・あなたは、自分でポジティブだと思いますか?
それともネガティブだと思いますか?
ポジティブネガティブ診断がお答えします。

性格を形作るさまざまな特徴のなかでも、人生に大きな影響を与えるのが「ポジティブさ」ではないでしょうか。
どちらかといえば、ポジティブな方がいろんなことにチャレンジでき、
失敗しても早く立ち直れるため、充実した人生を送りやすいといえるかもしれません。

しかしながら、ネガティブな性格が決して悪いわけでなく、
前向きに人生を楽しむことは可能で、大切なのは自分の性格をよく知っているかどうかでしょう。

このポジティブorネガティブ診断で、あなたがどちらかを知ってくださいね。・・》

読み終わった後、診断&心理テストを誰でもできるサイトと判り、
そして今回は、【あなたはどちら?ポジティブorネガティブ診断】が、無料で受診できると知った。
http://mirrorz.jp/article/positive-negative/
☆『MIRRORZ(ミラーズ)==>【あなたはどちら?ポジティブorネガティブ診断】☆

            

私は少しためらった後、果敢に受診した・・。

最初の質問は、『次のうち、一番ポジティブなイメージを感じる言葉は?』と問いに、
下段には10前後の用語が羅列されていた。
そして私は、この中のひとつをクリックした。

このように確か10ぐらい質問に応じて、これが私の日頃から思ったり、感じていることに、
該当する箇所にクリックした・・。

やがて終了すると、《・・結果発表
あなたは無邪気なポジティブ人間です》と表示された。
            

そして下段には詳細に記載され、恥ずかしながら公開すると下記の通り明記されていた。

《・・あなたは、とてもピュアな人ですね。
心から他人を信頼することができます。

また、「未来は明るい」という確信めいた思いを持っていて、
困難なことにチャレンジするときも、前向きに臨めます。

繊細で傷つきやすい面はあるものの、物事を悲観的に考える傾向は、ほとんどありません。
基本的には、いつも元気いっぱいで、悲しい出来事に遭遇して深く落ち込んでも、しばらく時間が経てばしっかり立ち直ります。

少年少女のように、きれいなハートを持っていて、ある意味では世間知らずともいえるかもしれませんが、
心配性な人よりも、前向きに人生を楽しむことができるのではないでしょうか。

ただ、このタイプは、だまされやすいという欠点も持っています。
世の中は、あくどい人もたくさんいます。人を信じすぎるのは考えもの。
付き合いの浅い人に対してはもう少し警戒心を強くした方が、面倒なトラブルを避けられると思いますよ。・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は読みながら、我ながら本当かしら、と微苦笑を重ねたりした・・。

私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は、次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
                                   

この当時も義務教育は中学校までであったが、PTA(授業料)の会費は有償であり、
確か教科書も有償の時代であった。

祖父が亡くなって後、私は担任の先生から母あてに一通の手紙を渡された・・。
帰宅後の私は母に手渡した後、
『PTA会費・・当分・・免除するって・・』
と母は呟(つぶや)くように小声で言っていた。

近くにいた小学5年の次兄は、母の小声の内容を知り、
『いくら貧乏していても・・PTAの会費ぐらいは・・払おうよ・・』
と次兄は怒ったような声で母に言ったりした。

次兄は翌日から下校した後、手入れが余り行き届かない生家の畑で農作物を採り、
程近くに広い敷地にある国際電電公社(現・KDDI)の数多くの社宅に売りに行ったりした。
このお陰で、何とか私は人並みにPTAの会費を支払うことができた。

長兄は旧家の跡取りであったので、亡き父の願い、祖父の遺言もあり、国立大学付属の中学校を通学する中、
たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
               
この間、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。
            

そして私は学校に行くのが苦手な学童となった・・。
        
この当時の私は、クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。

何かと平素は無口の癖に、ときたま怒り出し、周囲の多くの同級生が困惑し、
伊豆七島のひとつの大島は、幾10数年ごとに爆発する活火山の由来だった。
                      
        
やがて小学6年生の頃になると、突然に人前でおしゃべりをすることが大好きと変貌して、
見知らぬ小父さん、小母さんと私の方から話すようになり、
母、兄妹、そして父の妹でこの当時未婚だった叔母も驚いていた・・。

これ以来、私はお調子者のひとりとなって、学生時代、社会人のサラリーマンの中、
ときにはトンボのように自由にふるまったり、おだてられると高揚しながら奮闘したりしてきた。
            

この間、私は東京オリンピックが開催された1964年の秋に大学を中退して、映画・文学青年の真似事をして、
やがて敗退し、やむなく民間会社の中小業に中途入社した。

そして幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
定年前の6年前の頃からリストラ烈風となり、やがて私もあえなく出向となり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起の35年近くのサラリーマン航路を過ごした。

こうした中、同じ仕事をするならば楽しく明るくしょうょ、と周囲に言ったり、
或いは、自分の敵は自分だ、と自身を叱咤激励をしたりしてきた。

定年後、多々の理由で年金生活を始めると、
家内はもとより、ご近所の奥様、ご主人など談笑をしたりしている。

そして旅先で、食事処、ロビーなどて隣席した見知らぬ方でも、
私は話しかけて談笑したりしている。
            
このように私が男の癖におしゃべりなのは、亡き母から色濃く素直に受け継いだ、と確信を深めたりしている。
長兄と妹ふたりと談笑する時、何故かしら私が七割ぐらい話すことが多く、後で微苦笑したりしている。
            

世の中には、沈黙は金、という名言があるが、私に取っては死語だょ、と思ったりしている。

そして怪我(ケガ)は程んど治るが、性格は直らないなぁ、と恥ずかしながら
まもなく満72歳になる私は、今回の診断結果、穢れなき純粋無垢ように診断されたので、苦笑したりしている。

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