夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

老衰死 痛みや苦しみと無縁で、むしろ快楽覚えるものとされる、と私は学び、やがていつの日にか・・。

2016-08-14 15:16:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活のまもなく72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

たまたま本日の午前中、家内が駅前で買物したい、と要望されたので、
私は家内のボディガード、お供そして荷物持ちとして、スーパー、ドラッグストアなどを廻って、やがて帰宅した。

昼食後、ときおりネットで愛読している『NEWS ポストセブン』を見ている中、
【 老衰死 痛みや苦しみと無縁で、むしろ快楽覚えるものとされる 】と見出しを見て、
どのようなことですか、と思いながら、こっそりと読んでしまった。

この記事の原文は、『週刊ポスト』の昨年の2015年10月30日号に掲載された記事のひとつで、
関連の『NEWS ポストセブン 』に於いて、2015年10月16日に配信された記事であり、
無断であるが転載させて頂く。

《・・東京・世田谷にある特別養護老人ホーム「芦花(ろか)ホーム」。
今年3月、ひとりの老女が、家族に見守られながら、静かに息を引き取った。
最期を看取った同ホームの石飛幸三医師は、「死因は老衰死だった」と振り返る。
              

「この93歳の女性は、食事ができなくなっても、あえて胃ろう(*注)や点滴などの、延命治療はしませんでした。
一日の大半を眠って過ごすようになり、最期は家族に見守られながら、穏やかに息を引き取りました」
【*注:栄養などの摂取のために腹部に手術で穴をあけ、胃に直接チューブを入れて流動食を流し込む方法】

年老いて死を迎える女性を家族が見届ける様子は、
NHKスペシャル『老衰死 穏やかな最期を迎えるには』(9月20日放送)で紹介され、大きな反響を呼んだ。

番組は、認知症や様々な病を抱えた、平均年齢およそ90歳の高齢者約100人が生活する芦花ホームに半年間密着。
延命治療を施さず、徐々に人生の最終ステップに向かう人たちと、見守る家族の姿を詳細に伝えた。

超高齢社会の日本では、そうした老衰による死者が増加している。
1938年の9万8451人をピークに、老衰による死者の数は、減少を続けていたが、
2000年に2万1213人で底を打った後、大幅な増加に転じ、昨年は戦後最高の7万5340人を記録した(厚労省『人口動態調査』)。

この10数年で、およそ3.5倍に増加したことになる。
全死因に占める割合を比べても、2000年の2.3%(死因順位7位)から、昨年の5.9%(同5位)へと急伸している。

老いと向き合うとき、多くの人が不安を抱くのは、死に至るまでの「痛み」や「苦しみ」だ。
            

老衰死が間近に迫った高齢者は、呼吸が不規則になり、口をパクパクさせながら、
大きく肩を動かして「ハー、ハー」と音を出して、呼吸するようになる。

苦しみながら、必死に息をする痛ましい様子に見えるが、
石飛医師は「大丈夫。全然、苦しくない」と断言する。
 
「普段は使わない首や顎の筋肉を使って、パクパクするのは『下顎呼吸』といって、反射的なものです。
一見、本人は苦悶しているように見えますが、すでに意識はなく、苦しみもないのです」(石飛医師)

芦花ホームでは、入居者に下顎呼吸が見られても、酸素吸入などの処置を行なわず、
ただ静かに様子を見守る。

苦しみはなく、自然な状態とわかっているからだ。
そして迎える最期の瞬間も、痛みや苦しみとは無縁で、むしろ“快楽”を覚えるものであるとされている。
石飛医師が指摘する。

「死ぬ瞬間には、脳内に鎮痛効果や高潮感をもたらす神経伝達物質のエンドルフィンが分泌され、
苦痛を感じないとする研究結果が、世界中で出ています。
エンドルフィンは“脳内モルヒネ”と呼ばれるもので、食事が摂れなくなっても、空腹を感じることはありません」
            

老衰死する多くの高齢者の死にゆく様は、安寧そのものであり、
がんや心臓病などに見られる「闘病」というイメージは感じられない。
冒頭で紹介した93歳女性の最期を見届けた長男は、番組内でこう語っている。
 
「父が亡くなったときも、無理して命を延ばしても、かえってかわいそうだと延命治療をしなかったんです。
(母は)よくここまで頑張ったかなと。誉めてあげたい」
 
老衰死は、見守る家族にとっても、望ましいものとなることが少なくない。
他の病気などと比べて、衰弱が緩やかに進行し、死の時期も予見しやすいため、「その日」を迎える心の準備ができる。

石飛医師が語る。
「年老いて、人生の坂を下っていく親を見届けながら、
“いよいよ人生の終わりが近づいたな”と実感して、親の死を受け入れる準備ができる。

私はよく、患者から『ピンピンコロリで、死にたいなあ』といわれますが、賛成できない。
何の準備もなく急に死なれたら、残された家族はたまりません。
“こうしておけばよかった”といつまでも悔やみ、悲しみを癒すまでに長い時間がかかります」・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

ここ数年、月刊総合雑誌、新聞などに於いて、
到来する2025年には、団塊の世代が75歳以上となり、やがて2038年前後には、
推計約170万人もの人が亡くなる“多死社会”のピークが来る、と掲載されている記事が多くなっている。

こうした中で、医師の長尾和宏さんは、
「病院で死ぬ人が、在宅死を上回ったのが1976年。
40年前までは、家で死ぬ人のほうが多かった。

終末期を病院のベッドで過ごし、過剰な延命治療をすることが、果たして本当に幸せなのか考えてほしいのです」
穏やかな最期を迎える「平穏死」という考え方を提唱する。

「人が死に向かうときには、体の機能が徐々に落ちて終末期を経てから、やがて死を迎えます。
終末期に食べ物を受け付けなくなるのは、自然なこと。

しかし、点滴で無理に栄養を入れ過ぎてむくみ、もがき苦しみながら亡くなるというケースも。
医療の目的は、命を延ばすこと。
終末期以降も過剰な延命治療を続ける医療機関も少なくありません。

最期をどこで、どのように迎えるか、選択権は患者本人にあります。
しかし認知症や意識不明で病院搬送された後など、意思表明が困難なことも多いのです。
延命治療をどこまで希望するか、終末期医療の選び方によって、
穏やかな最期を迎えられるということを知ってほしいと考えています」

このような記事を私は数年前に読み、延命治療に対して拒否しょう思っていた私は、深く共感を深めてきた。
            

今回の老衰死の状況を学び、やがていつの日にか、晩年期が到来した時、
このような老衰で、この世とお別れできたら・・と念願したりした。

そして安らかに、逝きたいと願いながら、こればかりは神様か仏様の采配に寄る世界であるので、
何かと気弱な私は、いつの日にか、どうぞお願い致します、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

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