私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活し、
恥ずかしながら年男のまもなく満72歳を迎える身である。、
そして私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉9月に農家の三男坊として生を受けた。
こうした中で、長兄は1939年〈昭和14年〉8月、そして次兄は1942年〈昭和17年〉7月に続いて、私は三男として生まれ、
妹はふたりいて1947年〈昭和22年〉1月、そして1948年〈昭和23年〉10月生まれで、
私は兄ふたり、妹はふたりの間で、何かとサンドイッチのように育てられた・・。
そして私の家内は、私より5歳ばかり齢下の1949年〈昭和24年〉12月生まれである。

私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に、
映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしている中、養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。
まもなく私は契約社員としての警備員などをしながら、文学青年のような真似事をして、
純文学の新人賞にめざして、習作したりしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉4月、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたが、大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
こうして中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤める中、職場で共にしたのが、
新卒の団塊の世代の人も多く、やがて35年近く業界の苦楽の激しい空気を共にした。
このような関係で、私の友人、知人には団塊の世代も多く、
私は時代が流れている中で、何かと団塊の世代の動向を注視しているひとりである・・。

もとより「団塊の世代」という用語は、作家・堺屋太一さんが、初めて書かれた小説で、
1976年(昭和51年)から総合月刊誌『現代』に連載した近未来小説の『団塊の世代』に由来している。
そして厚生労働省は、その白書において「団塊の世代」ではなく、
「団塊世代」は「団塊世代(1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)生まれ)」と定義されている。
この3年間の年間出生数は260万人を超え、1947年(昭和22年)生まれは267万8792人、
1948年(昭和23年)生まれは268万1624人、1949年(昭和24年)生まれは269万6638人であり、
3年間の合計出生数は約806万人にのぼる、と公表されている。

そして1943年(昭和18年)から1946年(昭和21年)生まれた団塊の世代よりも数年前に生まれた世代に関しては、
住友信託銀行基礎研究所などから、『プレ団塊の世代』」と命名されたりしている。
或いは1950年(昭和25年)から1953年(昭和28年)生まれを『ポスト団塊の世代』と称せられたりしている。
こうした中で、1946年(昭和21年)生まれについては、第二次世界大戦後であるがベビーブーム前であるため、
『団塊の世代』に含める場合と、『焼け跡世代』や『戦中生まれ世代』に含める例がある、表現されていることもある。
私は1944年〈昭和19年〉9月生まれであり、敗戦約一年前に生を受け、
ときおり空襲警報の中、乳児の私は、母や叔母に抱きかかえられて、防空壕に避難した、と後年に教えられてきたが、
戦争を知らない世代と思い深めている・・。

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤める中、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
定年前の6年前の頃からリストラ烈風となり、やがて私もあえなく出向となり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起の35年近くのサラリーマン航路を過ごした。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
そして私は当初は60歳だったので、遠い親戚の小父さん、近所の高齢者など70歳以上の御方、
或いは書物で70歳以上の作者から、見上げるように多々教示されたりしてきた。

やがて2007年(平成19年)の頃から、団塊の世代の知人、後輩から定年退職を迎えた挨拶状、
或いは電話連絡を受けたりした。
この間、不幸にしてリストラで早期優遇退職制度に応じて、やむなく転職した連絡も幾たびも、
私は受けたりした。
こうした中、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。
私も60代の10年間は、定年するまで何かと苦節が多かった半生を振り返れば、
遥かな安楽な年金生活を享受してきた。
やがて私は2年前に、古稀と称せられる70歳となったが、体力の衰えを感じながらも、
人生は気合だ、と自身を何かと叱咤激励して過ごしているので、安楽な60代の続編かしら、
と微笑んだりしている。

こうして私はセカンドライフと称される年金生活を甘受する中で、
定年後にまもなくブログの世界を知り、やがて私は殆ど毎日投稿してきた・・。
こうした中、私は数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。
そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。
そして特に50代から90代の数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、
やがてその御方のブログの愛読者のひとりになってきた・・。
そして果てしない広い世界でも、私が長らく愛読者している数多くのブログを御方には、
お逢いしていないが、シニア世代の十人十色のセカンドライフの過ごし方を多々学び、
感謝を深めたりしている。
こうした中、団塊の世代の先発の1946年(昭和21年)生まれの御方たちが、お誕生日を迎えられると、
長寿と称される現代でも、それぞれの人生航路を過ごされ、古稀入門の70歳になられると私は知り、
英語に苦手な私でも、 Welcome Seventy Years of age、と心の中で呟きながら、
微笑んだりしている。
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恥ずかしながら年男のまもなく満72歳を迎える身である。、
そして私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉9月に農家の三男坊として生を受けた。
こうした中で、長兄は1939年〈昭和14年〉8月、そして次兄は1942年〈昭和17年〉7月に続いて、私は三男として生まれ、
妹はふたりいて1947年〈昭和22年〉1月、そして1948年〈昭和23年〉10月生まれで、
私は兄ふたり、妹はふたりの間で、何かとサンドイッチのように育てられた・・。
そして私の家内は、私より5歳ばかり齢下の1949年〈昭和24年〉12月生まれである。

私は東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に、
映画の脚本家になりたくて、中退した。
そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしている中、養成所の講師の知人の新劇の長老から、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。
まもなく私は契約社員としての警備員などをしながら、文学青年のような真似事をして、
純文学の新人賞にめざして、習作したりしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉4月、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたが、大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
こうして中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤める中、職場で共にしたのが、
新卒の団塊の世代の人も多く、やがて35年近く業界の苦楽の激しい空気を共にした。
このような関係で、私の友人、知人には団塊の世代も多く、
私は時代が流れている中で、何かと団塊の世代の動向を注視しているひとりである・・。

もとより「団塊の世代」という用語は、作家・堺屋太一さんが、初めて書かれた小説で、
1976年(昭和51年)から総合月刊誌『現代』に連載した近未来小説の『団塊の世代』に由来している。
そして厚生労働省は、その白書において「団塊の世代」ではなく、
「団塊世代」は「団塊世代(1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)生まれ)」と定義されている。
この3年間の年間出生数は260万人を超え、1947年(昭和22年)生まれは267万8792人、
1948年(昭和23年)生まれは268万1624人、1949年(昭和24年)生まれは269万6638人であり、
3年間の合計出生数は約806万人にのぼる、と公表されている。

そして1943年(昭和18年)から1946年(昭和21年)生まれた団塊の世代よりも数年前に生まれた世代に関しては、
住友信託銀行基礎研究所などから、『プレ団塊の世代』」と命名されたりしている。
或いは1950年(昭和25年)から1953年(昭和28年)生まれを『ポスト団塊の世代』と称せられたりしている。
こうした中で、1946年(昭和21年)生まれについては、第二次世界大戦後であるがベビーブーム前であるため、
『団塊の世代』に含める場合と、『焼け跡世代』や『戦中生まれ世代』に含める例がある、表現されていることもある。
私は1944年〈昭和19年〉9月生まれであり、敗戦約一年前に生を受け、
ときおり空襲警報の中、乳児の私は、母や叔母に抱きかかえられて、防空壕に避難した、と後年に教えられてきたが、
戦争を知らない世代と思い深めている・・。

私は中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤める中、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりしたが、
定年前の6年前の頃からリストラ烈風となり、やがて私もあえなく出向となり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起の35年近くのサラリーマン航路を過ごした。
このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
そして私は当初は60歳だったので、遠い親戚の小父さん、近所の高齢者など70歳以上の御方、
或いは書物で70歳以上の作者から、見上げるように多々教示されたりしてきた。

やがて2007年(平成19年)の頃から、団塊の世代の知人、後輩から定年退職を迎えた挨拶状、
或いは電話連絡を受けたりした。
この間、不幸にしてリストラで早期優遇退職制度に応じて、やむなく転職した連絡も幾たびも、
私は受けたりした。
こうした中、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代はゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。
私も60代の10年間は、定年するまで何かと苦節が多かった半生を振り返れば、
遥かな安楽な年金生活を享受してきた。
やがて私は2年前に、古稀と称せられる70歳となったが、体力の衰えを感じながらも、
人生は気合だ、と自身を何かと叱咤激励して過ごしているので、安楽な60代の続編かしら、
と微笑んだりしている。

こうして私はセカンドライフと称される年金生活を甘受する中で、
定年後にまもなくブログの世界を知り、やがて私は殆ど毎日投稿してきた・・。
こうした中、私は数多くの御方の投稿文を読ませて頂いたりした。
そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。
そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い馳せながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。
こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ哀歓を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。
そして特に50代から90代の数多く投稿文を読ませて頂く中、たとえたった一行の綴りでも、
瞬時に琴線(きんせん)が静かに奏(かな)で始め、
やがてその御方のブログの愛読者のひとりになってきた・・。

そして果てしない広い世界でも、私が長らく愛読者している数多くのブログを御方には、
お逢いしていないが、シニア世代の十人十色のセカンドライフの過ごし方を多々学び、
感謝を深めたりしている。
こうした中、団塊の世代の先発の1946年(昭和21年)生まれの御方たちが、お誕生日を迎えられると、
長寿と称される現代でも、それぞれの人生航路を過ごされ、古稀入門の70歳になられると私は知り、
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