私は東京の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
過日の7日に家内の助けを借りて小庭の手入れをしたが、
本日も朝の7時から午後の一時半まで、お互いに昼食抜きで奮闘したりした。
この間、雑木を剪定した後、散乱している枝葉を市から指定されている『燃えるゴミ袋』に、
袋に破れないように入れる為、私は枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりしていた時、
一昨日の夜、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン』に於いて、
【 阿川佐和子氏 父を看取り「人は理想通りには死ねない」と悟る 】を精読したことが思いだされた・・。
この記事の原文は、『週刊ポスト』の2016年10月14・21日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の『NEWS ポストセブン』で2016年10月7日に配信されていたが、 無断ながら転載させて頂く。
《・・阿川佐和子氏が「父の死」に際して学んだこととは
自分の「最期」について考えるとき、最も身近な“お手本”となるのは、両親が亡くなった時のことではないだろうか。
厳しかった父、優しかった母はどうやって人生を締めくくったのか・・。
作家・エッセイストの阿川佐和子氏(62歳)が、「父の死」に際して見たこと、学んだことを明かす。
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父・阿川弘之(作家)は老人病院(介護療養型医療施設)で3年半の入院生活を送り、2015年8月に亡くなりました。
私は臨終に間に合いませんでしたが、暴れるとか苦しむことなく、穏やかに旅立ったそうです。
94歳という高齢でしたが、ドラマのように「そろそろ最期だから、お前にいっておくことがある」
というような場面は、全くなかった(苦笑い)。
食べることには最後まで興味があったけど、私が作ったトウモロコシの天ぷらを口にして、
「まずい」と吐き出していたくらいで、死の床でも深刻な会話はありませんでした。
元々、私たち親子はそんなにセンチメンタルな関係ではありません。
新著の『強父論』でも様々なエピソードを紹介しましたが、小さい頃は怖いだけの存在。
私が成長してからは、幾分は会話が増えて、仲良くすることもあったけれど、
常にいつ怒られるかわからない恐怖がありました。
父におねだりなんて、一度もしたことないですからね、私。
それほど厳格な父でしたが、入院すると、少しずつ衰弱していきました。
毎日ベッドに寝たきりで自由が利かず、排泄もままならない。
楽しみといえば食事と読書だけで、何度も「もういい加減、死にたいよ」と口にしていました。
それでも頭はかなりしっかりしていて、「アレを持って来いといったのに忘れたのか!」
「そのコップじゃない!」と相変わらず病室で、私は叱られてばかりでした。
上司に仕える部下になったつもりで接していましたが、
亡くなる半月ほど前、意味の通らないことを口にしたときは、
「こんなことは、いままでなかったのに」とショックを受けました。
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実際に父が亡くなると、しみじみと父の死を考える暇もなく、葬儀や相続といった事務的な処理に追われました。
その後、何人かに「娘にとって父の死は、時間が経ってから、ジャブのようにじわじわと襲ってくるよ」
といわれましたけど、“その時”はまだ来ていません(苦笑い)。
それより、「また怒られるんじゃないかしら」という気持ちのほうが強い。
最後のほうは怒鳴らなかったけど、文句をいわれることが多く、脅威の余韻にいまも浸っています。
とはいえ、父が亡くなって1年以上経って、最近は「緩んでないか、私!」という危惧もあります。
「調子に乗るな!」と本気で叱ってくれる人がいなくなると、どうしても自分に甘くなる。
それは楽であると同時に、怖いことですからね。
父を看取って肌で感じたのは、「人は理想通りには、死ねない」ということです。
自宅のベッドで、ポックリ死にたいといっていた父も、結局病院で長く寝たきりでしたから。
いつかは自分も死にます。
私にもその時が来たら、はたしてスマートに息を引き取れるかどうか。
実際に死の宣告をされたら、結構あがくかもしれないし・・。
でも、できれば周りが「クッ」と吹き出すような死に方をしたい。
「どうもお邪魔しました」といって死ぬとかね。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
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私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文学青年の真似事をしたりした。
こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。
やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読し、
第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、1966年(昭和41年)7月に発刊された。
これ以前に、阿川弘之さんの著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。
特に『雲の墓標』は、阿川弘之さんが純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。
そして『われらの文学』に於いて、、阿川弘之さんの未読だった作品を読んだりし、
『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、阿川弘之さんが自己格闘されながら文学を確立されるまでの状況に、圧倒的に感銘をさせられた。
やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
阿川弘之さんの作品を読んだりしてきた。
そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之さんの作品から学んだひとつの詩である。
或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。
私は阿川弘之さんの数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、阿川弘之さんには慈父のように敬愛を重ねてきた。
この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。
父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之さんは、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに多々教示されたりした。
或いは阿川弘之さんの数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして御長女・佐和子さんも記載されていた。
このように私は、阿川弘之さんの愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
阿川弘之さんの随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。
《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・ですから親の14光り、かしら ・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、私はこの御方の感性に、瞬時に魅了されたりした。
もとより阿川佐和子さんは多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之さんの文章の手ほどきを受けたりし、その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたことを
阿川佐和子さんの初期のエッセイで、私は知ったりした。
この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。
やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。
こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。
そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんが、お見舞いに訪れる情景の写真があった。
私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、御歳を召された、と悲しんだりした。
そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。
それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。
読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
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私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ18年ばかり読んだりしている。
昨年の8月3日、阿川弘之さんは老衰のため逝去、と公表された5日の新聞で知り、
慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、阿川弘之さんの遺(の)された数多くの作品を再読したりした・・。
このように私は、阿川弘之さんに敬愛し、そして御長女の阿川佐和子さんには愛読者のひとりであり、
今回の阿川佐和子さんは《・・父を看取って肌で感じたのは、「人は理想通りには、死ねない」ということです。・・》
と私は読み終わった後、そうですよねぇ、と私は深く同意ざせられた。
私はここ10数年、友人、知人の死去に接して、予期せぬ出来事に戸惑いながら、
多くの御通夜、告別式に参列してきた。
こうしたささやかな体験から、この人生は、無念ながら晩終期の状況は、ご自身が思い描いたようなことは殆ど少ない、
と拙(つたな)い私でも、思い重ねたりしている。
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過日の7日に家内の助けを借りて小庭の手入れをしたが、
本日も朝の7時から午後の一時半まで、お互いに昼食抜きで奮闘したりした。
この間、雑木を剪定した後、散乱している枝葉を市から指定されている『燃えるゴミ袋』に、
袋に破れないように入れる為、私は枝葉を適度に剪定鋏(ハサミ)で切ったりしていた時、
一昨日の夜、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン』に於いて、
【 阿川佐和子氏 父を看取り「人は理想通りには死ねない」と悟る 】を精読したことが思いだされた・・。
この記事の原文は、『週刊ポスト』の2016年10月14・21日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の『NEWS ポストセブン』で2016年10月7日に配信されていたが、 無断ながら転載させて頂く。
《・・阿川佐和子氏が「父の死」に際して学んだこととは
自分の「最期」について考えるとき、最も身近な“お手本”となるのは、両親が亡くなった時のことではないだろうか。
厳しかった父、優しかった母はどうやって人生を締めくくったのか・・。
作家・エッセイストの阿川佐和子氏(62歳)が、「父の死」に際して見たこと、学んだことを明かす。
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父・阿川弘之(作家)は老人病院(介護療養型医療施設)で3年半の入院生活を送り、2015年8月に亡くなりました。
私は臨終に間に合いませんでしたが、暴れるとか苦しむことなく、穏やかに旅立ったそうです。
94歳という高齢でしたが、ドラマのように「そろそろ最期だから、お前にいっておくことがある」
というような場面は、全くなかった(苦笑い)。
食べることには最後まで興味があったけど、私が作ったトウモロコシの天ぷらを口にして、
「まずい」と吐き出していたくらいで、死の床でも深刻な会話はありませんでした。
元々、私たち親子はそんなにセンチメンタルな関係ではありません。
新著の『強父論』でも様々なエピソードを紹介しましたが、小さい頃は怖いだけの存在。
私が成長してからは、幾分は会話が増えて、仲良くすることもあったけれど、
常にいつ怒られるかわからない恐怖がありました。
父におねだりなんて、一度もしたことないですからね、私。
それほど厳格な父でしたが、入院すると、少しずつ衰弱していきました。
毎日ベッドに寝たきりで自由が利かず、排泄もままならない。
楽しみといえば食事と読書だけで、何度も「もういい加減、死にたいよ」と口にしていました。
それでも頭はかなりしっかりしていて、「アレを持って来いといったのに忘れたのか!」
「そのコップじゃない!」と相変わらず病室で、私は叱られてばかりでした。
上司に仕える部下になったつもりで接していましたが、
亡くなる半月ほど前、意味の通らないことを口にしたときは、
「こんなことは、いままでなかったのに」とショックを受けました。
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実際に父が亡くなると、しみじみと父の死を考える暇もなく、葬儀や相続といった事務的な処理に追われました。
その後、何人かに「娘にとって父の死は、時間が経ってから、ジャブのようにじわじわと襲ってくるよ」
といわれましたけど、“その時”はまだ来ていません(苦笑い)。
それより、「また怒られるんじゃないかしら」という気持ちのほうが強い。
最後のほうは怒鳴らなかったけど、文句をいわれることが多く、脅威の余韻にいまも浸っています。
とはいえ、父が亡くなって1年以上経って、最近は「緩んでないか、私!」という危惧もあります。
「調子に乗るな!」と本気で叱ってくれる人がいなくなると、どうしても自分に甘くなる。
それは楽であると同時に、怖いことですからね。
父を看取って肌で感じたのは、「人は理想通りには、死ねない」ということです。
自宅のベッドで、ポックリ死にたいといっていた父も、結局病院で長く寝たきりでしたから。
いつかは自分も死にます。
私にもその時が来たら、はたしてスマートに息を引き取れるかどうか。
実際に死の宣告をされたら、結構あがくかもしれないし・・。
でも、できれば周りが「クッ」と吹き出すような死に方をしたい。
「どうもお邪魔しました」といって死ぬとかね。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
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私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文学青年の真似事をしたりした。
こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。
やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読し、
第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、1966年(昭和41年)7月に発刊された。
これ以前に、阿川弘之さんの著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。
特に『雲の墓標』は、阿川弘之さんが純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。
そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。
そして『われらの文学』に於いて、、阿川弘之さんの未読だった作品を読んだりし、
『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、阿川弘之さんが自己格闘されながら文学を確立されるまでの状況に、圧倒的に感銘をさせられた。
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やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
阿川弘之さんの作品を読んだりしてきた。
そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之さんの作品から学んだひとつの詩である。
或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。
私は阿川弘之さんの数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、阿川弘之さんには慈父のように敬愛を重ねてきた。
この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。
父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之さんは、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに多々教示されたりした。
或いは阿川弘之さんの数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして御長女・佐和子さんも記載されていた。
このように私は、阿川弘之さんの愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
阿川弘之さんの随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
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たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。
《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・ですから親の14光り、かしら ・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、私はこの御方の感性に、瞬時に魅了されたりした。
もとより阿川佐和子さんは多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之さんの文章の手ほどきを受けたりし、その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたことを
阿川佐和子さんの初期のエッセイで、私は知ったりした。
この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。
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やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。
こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。
そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんが、お見舞いに訪れる情景の写真があった。
私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、御歳を召された、と悲しんだりした。
そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。
それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。
読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
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私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ18年ばかり読んだりしている。
昨年の8月3日、阿川弘之さんは老衰のため逝去、と公表された5日の新聞で知り、
慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、阿川弘之さんの遺(の)された数多くの作品を再読したりした・・。
このように私は、阿川弘之さんに敬愛し、そして御長女の阿川佐和子さんには愛読者のひとりであり、
今回の阿川佐和子さんは《・・父を看取って肌で感じたのは、「人は理想通りには、死ねない」ということです。・・》
と私は読み終わった後、そうですよねぇ、と私は深く同意ざせられた。
私はここ10数年、友人、知人の死去に接して、予期せぬ出来事に戸惑いながら、
多くの御通夜、告別式に参列してきた。
こうしたささやかな体験から、この人生は、無念ながら晩終期の状況は、ご自身が思い描いたようなことは殆ど少ない、
と拙(つたな)い私でも、思い重ねたりしている。
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