我が家の平素の買い物に関して、年金生活を始めた2004年(平成16年)の秋の当初より、
私は自主宣言をして、家内から依頼された品を求めて、
スーパー、専門店に、独りで行っている買物メール老ボーイとなっている。
こうした時は、家内が新聞に添付されているスーパーのチラシを見た後、
赤のサインペンで丸印を付けたりする・・。
やがて私は手渡されて、赤丸が付いたのが本日の買物の対象品であり、
そして私が店内で魅せられた品を追加するのが、我が家の鉄則となっている。
地元の天気情報は、優先事項となっている。

この後は、私はブログを原則として、パソコンの故障、旅行、入院をしていない限り、
毎日投稿しているので、加入している【goo blog】を開いたりした・・。
そして少し気になる『アクセス状況』欄の中で、
閲覧・・1064PV、訪問者・・784IP、
見たりして、75歳以前より減少してしまったよなぁ、と苦笑したりした。
あの当時は、ブログに対しても、熱があったが、
ここ数年は平熱よりも低く、まるで低空飛行のようだ、と独り微苦笑してしまった・・。
この後、ブログのランキングのひとつの【ブログ村】を開き、
『このブログの人気記事』を見たりした。
この欄は、私が投稿した記事の訪問して下さったベスト5が表示され、
殆ど最近の投稿数で占められたいる。
たまたま昨日は、5位に『映画『ドクトル・ジバコ』の原作者ボリス・パステ..』、
表示されて、古い投稿文を読んで下さったのか、と驚きながら、
私自身も詳細内容を忘れてしまったので、読んでしまった・・。

今回、リバイバル上映のように、あえて再掲載をする。
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映画『ドクトル・ジバコ』の原作者ボリス・パステルナーク、創作者の発想の根源には・・。
投稿日・・2012年5月2日
私は昨日の昼下り、居間にある映画棚より、ビデオテープを取りだして、
デビット・リーン監督の『ドクトル・ジバコ』(1966年=昭和41年)を居間で観たりした。
私は洋画の分野としては、この監督の数多くの作品に敬愛しているひとりなので、
名作の数々を繰り返して鑑賞しているが、昨日はこの『ドクトル・ジバコ』を5度目かしらと思いながら鑑賞した。
もとよりこの『ドクトル・ジバコ』の原作者は、
ロシアおよびソ連の詩人・小説家のボリス・パステルナーク(1890年~1960年)である。
ロシア革命の混乱に翻弄される、主人公で医師のユーリー・ジバゴと恋人ララの運命を描いた大河小説であるが、
この当時、アメリカとソ連の冷戦下の時代に、1957年に作品は完成したが、
ロシア革命を批判する作品であると考えられたために、本国のソ連での公刊を拒否された。
そして、密かに国外に持ち出され、1957年にイタリアで刊行され、
世界的に知られることになり、世界の文学史上はもとより、社会的に大きな事件として報道された。
そして今や伝説となり、以下は多くのメディアに報じられている。
翌年にはノーベル文学賞がパステルナークに授与されることになったが、
KGBとソ連作家同盟による反対運動の末、
受賞すれば亡命を余儀なくされると考えたパステルナークは
『母国を去ることは、死に等しい』と言い受賞を辞退した。
そしてソ連の共産党は、この『ドクトル・ジバゴ』の作品は、
『革命が人類の進歩と幸福に必ずしも寄与しないことを証明しようとした無謀な試みである』と非難した。
この当時『社会主義革命の輸出』をしていたソ連政府にとっては、
『ロシア革命は人類史の大きな進歩である』という見解に疑問符をつけることは許しがたいことであった。
やがてパステルナークは1960年の肺癌による死去されたが、
パステルナークに対する反対活動はソ連の国際的信用を傷つけることとなった。
そしてパステルナークは今日までロシア文学界に於ける主要人物であり、
さらに、パステルナークが始めた反体制活動は、
アレクサンドル・ソルジェニーツィンやその他の反体制活動家によって引き継がれ、洗練され、拡大していった。
その後、この作品がソ連で刊行されたのは、1987年のことである。
こうした歴史に翻弄されたパステルナーク、そしてこの作品が、
映画に於いては、脚本担当として劇作家のロバート・ボルトが、
原作の小説よりジバコとラーラの愛の軌跡に焦点を絞り、
ロシア革命の動乱の中で、翻弄されていく、純粋な男の悲劇を完成させている。
私は映画雑誌の講談社が発売した『週刊 20世紀シネマ館』全50冊を私は10数年前に購入したが、
この中で『ドクトル・ジバコ』の作品が取り上げられていたのを読んで、
原作者の創作の発想を知り、読了後に動顚し、敬服させられたのである。
この『週刊 20世紀シネマ館』の中に、定例の特集の【シネマ物語】のコーナーがあり、
《 詩人パステルナークが愛した実在の『ラーラ』》
と題されて、綴られていた。
無断であるが転記をさせて頂く。
《・・
1960年5月30日の深夜、
ノーベル賞作家ポリス・パステルナークが世を去った。
その傍(かたわ)らにいた一人の女性こそ『ドクトル・ジバコ』のヒロイン、
ラーラのモデル、オリガ・イビンスカヤである。
第二次世界大戦直後の1946年、
56歳のパステルナークは、20歳以上も年下のオリガと恋に落ちた。
詩人は妻と別れ、オリガと同棲したが、
オリガは《反革命詩人》の愛人ということで、強制収容所に送られた。
オリガは収容所でパステルナークの子を流産し、4年間を過ごす。
この体験と、オリガへの深い愛情を、パステルナークは小説『ドクトル・ジバコ』を綴り、
世界中を感動させたのだった。
・・》
私は恥ずかしながら原作の翻訳も読んでいないが、この作者の第二次世界大戦後の体験を
第一次世界大戦、そしてロシア革命の時代を背景とした壮大な物語に、
創作者としての発想の根源を作品として結実させたことに驚いている。
創作者は小説家はじめとする人は、
脳裏に幻想をどれだけ豊かにした上、創作し、作品を完成させるかの力量に、
圧倒的に感銘したのである。
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この当時の私は、写真を掲載する技巧も無知で、ひたすら言霊を信愛して、
文章だけで、投稿文を重ねていた時で、12年前で67歳であったりした。
こうして読み返して、我ながら感性があったなぁ・・と苦笑したりした。
恥ずかしながら70代になると、無念ながら自身の体力の衰えを実感した為か、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに、
私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、
独り微苦笑する時もある。
自身が堕落したのか、齢を重ねると、感性も衰えて、
79歳の私は、微苦笑してしまった・・。