9月22日に自身の誕生日を迎えた。誕生日も、いい加減回を重ねてくると、さて何回目だったか定かでなくなってくる。
40代の後半にさしかかった頃から、人生の折り返し点を意識するようになった。おのずと、己がこの世に生をうけた意味を考えることとなった。
我が家の子供たちは、15歳になると親元を離れ、高校での寄宿舎生活に入っていった。それは、ごくごく自然なことだった。
昨年、最後に残っていた末娘のくるみさんも15歳になり、姉たちに倣【なら】い、生まれ育った家を巣立っていった。
昨年の22日、彼女たちは、それぞれの生活の拠点から私の誕生日を祝福してくれた。それは、子供たちそれぞれが、自らの道を歩み始めていることを、しみじみ感じさせてくれるに十分な出来事だった。
私がいて、彼女たちがいる。間違いなく、私が生をうけた意味の一つはそこにある。
今年の22日は、有紀さんが帰省中だった。夜、外食をということになり3人で久しぶりに「暖家【だんけ】」を訪れた。
有紀さんは大学2年生、もうすぐ二十歳の誕生日を迎える。
40代の後半にさしかかった頃から、人生の折り返し点を意識するようになった。おのずと、己がこの世に生をうけた意味を考えることとなった。
我が家の子供たちは、15歳になると親元を離れ、高校での寄宿舎生活に入っていった。それは、ごくごく自然なことだった。
昨年、最後に残っていた末娘のくるみさんも15歳になり、姉たちに倣【なら】い、生まれ育った家を巣立っていった。
昨年の22日、彼女たちは、それぞれの生活の拠点から私の誕生日を祝福してくれた。それは、子供たちそれぞれが、自らの道を歩み始めていることを、しみじみ感じさせてくれるに十分な出来事だった。
私がいて、彼女たちがいる。間違いなく、私が生をうけた意味の一つはそこにある。
今年の22日は、有紀さんが帰省中だった。夜、外食をということになり3人で久しぶりに「暖家【だんけ】」を訪れた。
有紀さんは大学2年生、もうすぐ二十歳の誕生日を迎える。