呼吸器外し患者死亡、医師を書類送検 和歌山県立医大(朝日新聞) - goo ニュース
中村勘三郎さんや林家正蔵さんは芸も、名誉も、地位も、有り余るほどの金銭もあるのに、それでもなお不正を働いていました。
1億2千7百万総拝金主義の私たちですが、これほどまでの金銭に対する執着というのは何なのでしょう。
昨日の『ジャーニーよ 何処へ』に対する千間丸さんのコメントにあるように「見解の相違」という言葉が脱税事件等の際に、よく用いられますが、その言葉の裏側にある気持ちを考えているうちに憲法9条の拡大解釈を連想しました。
ごまかして、ごまかして、とうとうごまかしきれなくなるところまできたので、数の力で変えてしまおうというのが、今回の憲法改正問題の本質だと私はとらえています。
今や憲法改正は現実のものとなりつつあります。今度の参院選で自民党が多数を占めれば、おそらく安倍首相の思惑通りに憲法改正がなされることでしょう。それは、第9条が変えられることを意味します。安倍首相の狙いは、第9条を変えることで堂々と集団的自衛権を行使しようというものです。集団的自衛権が行使されれば、必然的に自衛隊員に犠牲者が出ます。そして、それに比例するよう制服組の士気は鼓舞【こぶ】され、私たちの攻撃性は強まるでしょう。いつか来た道です。
話がそれましたが、「見解の相違」というのは、まやかしに過ぎません。今回の憲法改正に関する各紙の世論調査によると、改正賛成が多数を占めているようですが、私たちはごまかしにあってはいないでしょうか。政府の言うことを闇雲【やみくも】に真に受けるのではなく、主体的に考え、判断し、投票につなげたいと思います。
いつの間にか私たちは、とんでもない迷路に陥【おちい】ってしまいました。経済至上主義・拝金思想・ことなかれ主義・自分さえよければという思想。それらが、家庭における親の子に対する過保護・過干渉・虐待【ぎゃくたい】、逆の親殺し、学校における教師の暴力・子供同士のいじめ、社会におけるあらゆるところにはびこる、まやかし・不正・残虐な事件という現象として現れているのです。
なぜ、こんなことになったのでしょう。それは、おそらく私たちが本当の幸福というものを真摯【しんし】に求めてこなかったからだと思います。何も考えることなく、目の前の欲望を満たすことだけに夢中だったのです。
瀬戸内寂聴さんは現代を評して「こんなに悪い時代はなかった」「先の戦争の頃より悪い」と語っています。
私たちは、今こそ本当の幸福を求めて歩み始めなければなりません。迷路の出口から幸福へと続く道を見つけ出さなければなりません。
それでは、幸福へと続く道はどこにあるのでしょう。それは、自然の摂理【せつり】にしたがって生きるということに他なりません。自然界を支配している道理にのっとって生きるということです。自然に生きるということです。
今日、高度に発達した文明・科学・医療が私たち人間を苦しめています。
冒頭の記事にあるように延命装置があることで、患者の家族や医師は辛【つら】い判断を迫られ、医師は、よかれと思ってやったことで書類送検されることになってしまいました。何より、患者自身が自らのあずかり知らぬところで己の生死を決定付けられるのです。こんな不幸なことはありません。
最近、ウイルス性の風邪に抗菌剤である抗生物質が治療効果がないばかりか、複合的な耐性の強い細菌を作り出す元になっているということが広く知られるようになってきました。「良心的」な医者は、抗生物質を処方する割合をいかに減らすか、それなりに腐心【ふしん】しています。しかし、それでも背に腹はかえられず大量の薬を出し続けています。
もともと、私たちの身体にはケガや病気を治す力が備わっています。日ごろから、その自然治癒力【しぜんちゆりょく】を高め、心身の健康に留意することが自然の摂理にかなった生き方だと思います。
私は、病院より温泉に行きます。
中村勘三郎さんや林家正蔵さんは芸も、名誉も、地位も、有り余るほどの金銭もあるのに、それでもなお不正を働いていました。
1億2千7百万総拝金主義の私たちですが、これほどまでの金銭に対する執着というのは何なのでしょう。
昨日の『ジャーニーよ 何処へ』に対する千間丸さんのコメントにあるように「見解の相違」という言葉が脱税事件等の際に、よく用いられますが、その言葉の裏側にある気持ちを考えているうちに憲法9条の拡大解釈を連想しました。
ごまかして、ごまかして、とうとうごまかしきれなくなるところまできたので、数の力で変えてしまおうというのが、今回の憲法改正問題の本質だと私はとらえています。
今や憲法改正は現実のものとなりつつあります。今度の参院選で自民党が多数を占めれば、おそらく安倍首相の思惑通りに憲法改正がなされることでしょう。それは、第9条が変えられることを意味します。安倍首相の狙いは、第9条を変えることで堂々と集団的自衛権を行使しようというものです。集団的自衛権が行使されれば、必然的に自衛隊員に犠牲者が出ます。そして、それに比例するよう制服組の士気は鼓舞【こぶ】され、私たちの攻撃性は強まるでしょう。いつか来た道です。
話がそれましたが、「見解の相違」というのは、まやかしに過ぎません。今回の憲法改正に関する各紙の世論調査によると、改正賛成が多数を占めているようですが、私たちはごまかしにあってはいないでしょうか。政府の言うことを闇雲【やみくも】に真に受けるのではなく、主体的に考え、判断し、投票につなげたいと思います。
いつの間にか私たちは、とんでもない迷路に陥【おちい】ってしまいました。経済至上主義・拝金思想・ことなかれ主義・自分さえよければという思想。それらが、家庭における親の子に対する過保護・過干渉・虐待【ぎゃくたい】、逆の親殺し、学校における教師の暴力・子供同士のいじめ、社会におけるあらゆるところにはびこる、まやかし・不正・残虐な事件という現象として現れているのです。
なぜ、こんなことになったのでしょう。それは、おそらく私たちが本当の幸福というものを真摯【しんし】に求めてこなかったからだと思います。何も考えることなく、目の前の欲望を満たすことだけに夢中だったのです。
瀬戸内寂聴さんは現代を評して「こんなに悪い時代はなかった」「先の戦争の頃より悪い」と語っています。
私たちは、今こそ本当の幸福を求めて歩み始めなければなりません。迷路の出口から幸福へと続く道を見つけ出さなければなりません。
それでは、幸福へと続く道はどこにあるのでしょう。それは、自然の摂理【せつり】にしたがって生きるということに他なりません。自然界を支配している道理にのっとって生きるということです。自然に生きるということです。
今日、高度に発達した文明・科学・医療が私たち人間を苦しめています。
冒頭の記事にあるように延命装置があることで、患者の家族や医師は辛【つら】い判断を迫られ、医師は、よかれと思ってやったことで書類送検されることになってしまいました。何より、患者自身が自らのあずかり知らぬところで己の生死を決定付けられるのです。こんな不幸なことはありません。
最近、ウイルス性の風邪に抗菌剤である抗生物質が治療効果がないばかりか、複合的な耐性の強い細菌を作り出す元になっているということが広く知られるようになってきました。「良心的」な医者は、抗生物質を処方する割合をいかに減らすか、それなりに腐心【ふしん】しています。しかし、それでも背に腹はかえられず大量の薬を出し続けています。
もともと、私たちの身体にはケガや病気を治す力が備わっています。日ごろから、その自然治癒力【しぜんちゆりょく】を高め、心身の健康に留意することが自然の摂理にかなった生き方だと思います。
私は、病院より温泉に行きます。
もともと、私たちの身体にはケガや病気を治す力が備わっています。日ごろから、その自然治癒力【しぜんちゆりょく】を高め、心身の健康に留意することが自然の摂理にかなった生き方だと思います。
本当にそう思います。人間って結構強いものですよね!子供に対してもちょっとしたけがや風邪くらいは普通に治るはずですよね。
昔はそうだったのですから・・・
親は心配しすぎなんでしょうか?
ちなみに私が小さい頃はお菓子を床に落としたら普通に食べていましたが、今は捨ててしまうのでしょうね。いつもいつも薬に頼っているといざという時に効きません!なるべくなら自然治癒力!大賛成です!
科学や医療を否定するものではありませんが、科学や医療で何とでもなるとの無意識の傲慢【ごうまん】は省みる必要があるのだろうと思います。
人間も自然界の一員として生かされているのですから、自然の摂理に適【かな】った生き方をすることが喜びであり、幸福へと続く道だと思われます。
それで書類送検なら、もう医者のなり手がいなくなりますよ。
(まあ金儲けのためになる人はいるでしょうがね)
三権分立なはずなのに、なんで行政府がこんなにも
しゃかりきに憲法改正に走るのだろう?
アベシンゾーの頭の中はどうなっているのだろうか?
※彼の恥ずかしい出来事は山ほどあるが
「きっこのブログ」の9月3日、12日、16日、21日、
22日、28日あたりの日記を読んでみてほしい。
とても総理と呼ばれる器の人間ではないことが分かる。
日本国民全員にあの記事を読んでもらいたいものだ。
いつも「はじめに結論ありき」の不毛の議論、
有識者会議等のメンバーは全員自分に都合のいい賛成論者。
こんなの誤魔化しだあり、まやかしであり、国民を愚弄している!
許せない!!
選挙で与党の人数を減らすしかない。
アベシンゾーは怖いソーリ(Sorry)だね~!
今の世の中、何かが狂っている。
その一つが政治であることは明白なのだが・・・
それは、同時に私たち国民一人ひとりの志の問題でもあります。
国民以上の首相ということはありません。首相は国民そのものです。彼の在り様は、私たち国民そのものなのです。
優れた人間性を備えた首相を持ちたいならば、私たちの人間性を高めなければなりません。