峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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神の領域

2007年04月23日 | 暮らし
ここ数年、ずっと気になっている言葉があります。「許せない」という言葉です。
いつの頃からか、ことあるごとに為政者も、マスメディアも、そしてマイクを向けられた市民もが異口同音に「許せない」と居丈高【いたけだか】に言うようになりました。
それは時に「許さない」・「許さぬ」・「許せません」と使われ、また、ある場合には「絶対に許せない」とまで用いられます。

昨日の統一地方選で新しく長崎市長になった田上さんも「暴力は許さない」と当選後のインタビューで語り、地元紙も「許すことのできない卑劣なテロ」と社説に記しています。
私が気になるのは、文脈からして「許さない」の主語が全て一人称である点です。「私は許さない」であり「我々は許さない」なのです。
いったい、どうして、人が人を許したり、許さなかったりできるのでしょう。「許せない」という人は、どうしようというのでしょう。
許す・許さないの主体は「神」のみであるように私には思われます。

私は人々が「許せない」と言葉を発するとき、そこに暴力的なものを感じます。人間の驕【おごり】を感じます。

自由で、民主的で、人々が真に自立した社会で「許す」も「許さない」もないではないか、と私は思うのです。
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