昨年3月、長崎市立小島中学校で中学2年生の生徒が担任から生活指導を受けた直後、校舎4階から飛び降り自殺した事件がありました。
ところが、その生徒の死を長崎市教育委員会は、県教育委員会に「転落死亡事故」と報告していたことが15日に分かりました。
男子生徒は、昨年3月10日の放課後、持っていたタバコが見つかり、担任から校舎3階の多目的室で生活指導を受けた。学年主任が代わって話を聞こうとすると「トイレに行きたい」と教室を出たまま戻らず、校舎そばで倒れているのが見つかった。指導を受けた部屋の机には「オレにかかわるいろんな人 いままでありがとう ほんとにありがとう ○○(友人の名前)とりょうしん、他のともだちもゴメン」と書いたノートがあった。(9月16日付長崎新聞)
「自殺」を「事故」と報告したことについて、市教委健康教育課は「遺族は当初『自殺なんかをする子ではない』と言っていたので配慮【はいりょ】した」と説明にもならないような説明をしているといいます。
遺族の求めで実施した市教育委員会の調査では、担任教諭の生徒に対する体罰も発覚しているようです。
遺族は、担任が喫煙した友人の名前を聞き出そうとするなど、精神的虐待【ぎゃくたい】行為があり追い詰められたなどとして再度の調査を要望しているといいます。
自殺を余儀【よぎ】なくさせるほどの「生活指導」って、何なのでしょう。私は、この事件のことがずっと引っかかっています。
だが、事件の一報【いっぽう】が長崎新聞で報じられた後、どのマスコミも、どんなジャーナリストもそれを問題にしようとしません。何故なのでしょう。
何故、中高生の自殺がとまらないのか、自らの命を犠牲にしてこの子が教えてくれています。
上からの命令で、校長が、教諭が子供たちにどんな「命の教育」をしても、それは虚【むな】しいことなのです。
この担任が、この子に日頃どのように接していたのか。その日、この子に何を言って、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。
しばしば、専門家が子供の「サイン」に気付くことが重要だと言いますが、子供たちは自らの命をかけて、私たちの社会がおかしいとサインを送っています。身命を賭【と】して私たちに抗議しています。
ところが、その生徒の死を長崎市教育委員会は、県教育委員会に「転落死亡事故」と報告していたことが15日に分かりました。
男子生徒は、昨年3月10日の放課後、持っていたタバコが見つかり、担任から校舎3階の多目的室で生活指導を受けた。学年主任が代わって話を聞こうとすると「トイレに行きたい」と教室を出たまま戻らず、校舎そばで倒れているのが見つかった。指導を受けた部屋の机には「オレにかかわるいろんな人 いままでありがとう ほんとにありがとう ○○(友人の名前)とりょうしん、他のともだちもゴメン」と書いたノートがあった。(9月16日付長崎新聞)
「自殺」を「事故」と報告したことについて、市教委健康教育課は「遺族は当初『自殺なんかをする子ではない』と言っていたので配慮【はいりょ】した」と説明にもならないような説明をしているといいます。
遺族の求めで実施した市教育委員会の調査では、担任教諭の生徒に対する体罰も発覚しているようです。
遺族は、担任が喫煙した友人の名前を聞き出そうとするなど、精神的虐待【ぎゃくたい】行為があり追い詰められたなどとして再度の調査を要望しているといいます。
自殺を余儀【よぎ】なくさせるほどの「生活指導」って、何なのでしょう。私は、この事件のことがずっと引っかかっています。
だが、事件の一報【いっぽう】が長崎新聞で報じられた後、どのマスコミも、どんなジャーナリストもそれを問題にしようとしません。何故なのでしょう。
何故、中高生の自殺がとまらないのか、自らの命を犠牲にしてこの子が教えてくれています。
上からの命令で、校長が、教諭が子供たちにどんな「命の教育」をしても、それは虚【むな】しいことなのです。
この担任が、この子に日頃どのように接していたのか。その日、この子に何を言って、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。
しばしば、専門家が子供の「サイン」に気付くことが重要だと言いますが、子供たちは自らの命をかけて、私たちの社会がおかしいとサインを送っています。身命を賭【と】して私たちに抗議しています。
33年前のきょうのことだそうです。
当時の中国の最高指導者である毛沢東主席が田中角栄首相を私邸に招き、こういったそうです。
「もう、ケンカはすみましたか。ケンカはしないとダメですよ」
その後、日中は暗い歴史を乗り越え、平和と友好の道を歩み出したのでした。
かつて掲示板で、必要以上に小袋さんを挑発【ちょうはつ】したことがありました。
あれは意図的なものでした。小袋さんには、お会いしたとき、お話したとおり、小袋さんとならば、掲示板でまともな議論できると思ったからです。
ネット上の掲示板が匿名で暗闇から石をぶつけるような誹謗中傷【ひぼうちゅうしょう】の無法地帯と化していることに、これではせっかくの素晴らしい道具を殺してしまうことになりかねないと思っていました。
そこで、大変差し出がましい話ではありますが、考えは異なっても、他者の意見と共に他者を尊重するような議論がネット上でできることを小袋さんとの間で証明してみたかったのです。
難しいかなと思っていましたが、ある日突然パンチが飛んできました。
私は非力【ひりき】で臆病【おくびょう】なボクサーですが、ブログというリングの上を逃げ回っていたのでは、せっかく観に来ていただいているお客様に申し訳が立ちません。
それに、若者たちも、わざわざ観に来てくれているのですから、彼らが憧れるようなファイトを見せなくてはなりません。全力で戦いました。
しかし、いいファイトは、いい相手がいてこそ成立するものです。
小袋さんは、いいファイターでした。勇敢でした。
正々堂々とご自身のお考えを、ご自身のお言葉で語っていただいたことに敬意を表します。
有り難うございました。
峰野さんの、幅広いご経験と洞察、実行力には改めて敬意を表します。
私は私の生きる場所で、私なりに努力をしていくしかありません。私たちの望むものは、人が人として幸福に生きる社会です。今後とも有益な示唆を頂ければ幸いです。
今回、私はスエィバックやヒットアンドアウェイをするつもりは全くありませんでした。足を止めてとことん打ち合うことを決意していました。それは、多くの学び・気付きをもたらしてくれました。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。
この問題に関し、私の言わんとするところを分かっていただく努力をこれ以上、試みようとすれば、ある事件と、その背景に触れるしかないように思われます。その事件とは、事件名を記すのがためらわれるほどの残忍さと、形容し難い非人間性において、他に類を見ない東京都足立区で平成元年に発覚した事件です。
しかし、事件の概要や加害者の少年らの家庭環境・学校歴などをここに記す気力が私には湧いてきません。それほど、あまりにも悲しく、あまりにも辛く、あまりにも絶望的な事件でした。
それでも、どうしても言っておかなければならないことがあります。それは、この人の道にはずれた犯罪を犯した少年にも、学んで変わる力があったという事実です。
この少年の可能性を引き出しえなかった学校と社会の責任はだれが負うのか。それは、私です。
これが最後ですが、小袋さん、私がこのブログで、『峰野宅』で問うているつもりは「社会の在り方」であり「私の在り方」です。
決して、教員を責めたり、あなたを責めたり、犯罪を犯した親を責めるるつもりはありません。ましてや、犯人探しをする気など毛頭ありません。
犯罪を犯すような子供たちの家庭環境が劣悪なのは当たり前のことです。これでは子供が真っ当に育つわけがないという家庭で育っています。至極、当たり前のことではありませんか。
しかし、親をせめても始まりません。親は良かれと思って子供と接しています。親も社会の犠牲者です。
おおもとの社会の思想や哲学や価値観などが変わらない限り不幸な家庭はこれからも増産され続けられるのです。
私がより良く変わり、社会がより良く変わらなければなりません。
ところで、永山事件の頃の不幸な家庭の形は1つ、貧困でした。今も、不幸な家庭の形は1つです。ただし、それは貧困ではありません。「暴力」です。
前述の犯罪を起こした少年たちの家庭にも、少年たちの育ちの過程にもやはり「暴力」がつきまとっています。
「両親の不仲」「仕事一筋の父親は厳しい体罰をふるった」「高校の柔道部で先輩・顧問に体罰を受ける」「やがて、外に出てケンカを売るようになり、母親に暴力をふるうようになった」「高校に入るが中退」「暴力事件やバイクの無免許運転で保護観察処分に」「暴力団員と知り合い…」
私が保護司として接してきた安田くん(仮名)の家庭も育ちの過程も、まったく同じでした。
このへんで終わりにします。
10年以上前、佐々中学校に、あだ名が「サメ」という体育の教員がいました。たしか、ハンドボールの選手として実績があり、身長が190cmくらいの立派な体格をしていました。
子供たちに聞くところ、それはもう無茶苦茶な暴力をふるっていました。みんな怖がっていました。当時中3のある男の子が、その教員の前ではウソをつけないと言っていました。その190cmの教員に前に立たれ、うそを言おうとすると体がブルブル震えてくるのだというのです。
子供たちが殴られるのはイヤだというから、その先生に殴らないようにお願いに行こうかというと、みんな必死で止めてくれといいます。なぜかというと、もっと殴られるからだというのです。
結局、その教員は後に他の学校で子供にケガをさせ、新聞に載るようなことになってしまいました。
児童委員の役割を担うようになってからは、体罰が行われているというのを聞くと教育長か校長と話をするようにしています。また、児童委員協議会で年に1度、教育長と小中学校長との話し合いがありますので、その席でも質しています。
保護司の仕事をするようになってからは、暴力的なものに関していっそう神経を尖らせています。中学生や、形式的に中学を卒業させられた子供が事件を起こして保護観察処分になるケースが少なくありません。前述したような家庭で育った子供らの眠っている力を引き出してやれるのは学校です。本物の教育です。
だが、残念ながら、逆に教員とのトラブルで学校に不信感を募らせる子供たちがいます。
前の教育長は体罰は絶対にしてはならない、やるなら首を覚悟してやれと教員に言っているというのが口癖でしたし、協議会の席でも校長に言っていました。
教育長はともかく、前の校長に体罰が行われているが…と初めて切り出したときは、それまで娘の将棋の話などで和やかだったムードが一変、とたんに渋い表情になられました。
私は、今でもそうですが、説明を求めたり、抗議するというような気持ちで出かけてはいません。ですから、そうとられないように気を使ってしまいます。
実は、今回の体罰の件も、10月の児童委員協議会がちょうど教育長・各校長との話し合いとなっているので、そこで取り上げようと思っていました。
ところが、きょうの授業参観の途中、教室を巡回してきた校長が廊下で立って参観している私のところへやってきて「ずいぶん涼しくなりましたね」と声をかけきたのです。
いろんな所でお会いしますし、話もしますが、こんな状況で声をかけられたのは意外でした。「ここが、一番多いです」「クラスの子供たちも活気があると聞いていますよ」そんな短いやり取りをした後、校長は階段を降りていかれました。
その直後、フッと校長に哀感を覚えました。体罰の問題は小学校ではほとんどありません。ということは、協議会の席で体罰の問題を取り上げれば、中学校長1人が辛い立場に立たされます。
「よし、校長1人に伝えよう」すぐに校長室へと向かいました。校長は教頭、教務主任と玄関ホールに立っていました。校長に「ちょっとお話が」と言うと、「どうぞ校長室へ」とすぐに案内されました。私が持ち出す話は学校側にとって、あまり気分のいい話ではないことはすでに承知しておられる風です。
だから、抗議とか文句とか付けに来ているのではないことを分かっていただくために、言い回しなどにすごく気を使います。前置きが長くなります。
その後、ここでも記したようなことをるる申し上げ、とにかく暴力は教育の現場にそぐわないことをご理解していただくよう話しました。
そうやって話をした結果、校長は、そういう事実を知らなかった。いつも学期ごとに体罰をしてはいけない。法律でも禁止されている。体罰をふるえば負けだ。暴力以外に指導する方法を持っていないということを認めることだ。などと話しているのですが…。
「教えていただき、有り難うございました」と何度も何度も繰り返されました。
率直に言って、ここまで「教員=悪」の図式を徹底されると、もはや「・・・」です。それでも、書くべきことは書きたいと思います。
「日本の学校教育は、無数の子供を切り捨てているだけではなく、その切り捨ての上に学校教育が成り立っています。「学校はどうなるでしょうか」という小袋さんのことばに、よく表れています。」と述べておられますね。
「学校はどうなるでしょうか。」タバコを所持する生徒と本気で向き合うことをしないでいれば、学習するにふさわしい学校の環境が保障されうるかということを想像なさって頂きたいと思います。
そして何より、当の生徒はどうなるのか、ということをお考え下さい。私の文章は生徒、学校の順番です。その順番1つ取ってみても、「本気で向き合う=切り捨てる」とはならないことが明らかではありませんか。
もちろん、先に記したように文章は読み手にどのようにでも解釈される可能性がありますから、峰野さんのように解釈されるのも「自由」ではあります。
さすがに中学生についてはよくご存知ですね。「例えば、2歳から~」の段落には事実ならではの力があります。実はこれこそが、私がこの一連の投稿をすることになった原因の1つなのです。つまり、あの自殺した少年に関して、「どのような育ち方・育てられ方をしたのか」をも明らかにすべきだ、と言いたいのです。私が最初から述べていることは、自殺には複合的な原因があるはずなのに、その原因を学校=教員の指導にのみ求めるのは誤っている、ということです。峰野さんは「担任がその子に何を言い、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。」と繰り返されていますが、なぜ同時にその生徒の生育歴をも明らかにすることを求めないのでしょうか。
それをせず、教員の指導のみを追及されようとなさる。
そういった峰野さんの方向性に対して、「私たち現場の教員が、どれほどの不安の中、毎日を過ごしているか、ご存知でしょうか」と書き始めたのです。
「中学生になった彼らは~」の段落も、お見事です。
そう、喫煙という行為が理性レベルを動機として行われているのではなく、無意識の心理を動機として行われている場合、そのレベルに訴えかける「厳しく叱る」指導が大事なのです。これが私の考える「厳しさの解釈」です。
なお、峰野さんは「子供のやったことを咎める前に、子供の話をゆっくりと聞いてやるような社会であってほしいと私は願っています」のも述べておられますが、これはいわゆるカウンセリング的指導です。
現場における生徒指導では、カウンセリング的指導は多くの指導方法の中の1つです。それはすべてではありません。そして、喫煙に対してカウンセリング的指導だけで対処しようとすることは適切ではありません。事実関係をただし、厳しく叱る指導を行った後、喫煙がいかに体に悪いか、特に10代の内から喫煙することがそれからの健康においていかにマイナスであるかを説諭します。これは理性レベルへの指導です。そしてその後に、喫煙に至る背景を探り、不満の要因を取り除いてやる指導へと向かいます。カウンセリング的指導が有効なのはこの段階においてです。
カウンセリング的指導に至る一連の指導は、もちろん
1人の教員がやってもいいのですが、それよりも効果的なのは、カウンセリング的指導を別の教員が行うことです。ここにチームワークが発揮されることが、教員集団が機能するということです。私が自分の所属する学年の先生方にお願いしているのもこの点です。
なお、たまたまですが、昨日、卒業生からハガキが届きました。その生徒は一時期不登校の傾向にありましたが、当時担任だった私はカウンセリング的指導を行い、その生徒は再び学校に来るようになり、進級・卒業していきました。大学生になったその生徒からの、近況報告と御礼の便りです。カウンセリング的指導が有効な場面も確かにあるのです。それを知らないわけでは決してありません。
昨日、学年の全クラスの道徳の時間に、「命の授業」を実施しました。私も少しお話しをさせて頂きました。もちろんそれだけで全てが解決する、いい方向に行くとは考えていません。これからも機会あるごとに、命の尊さについては訴えかけていくつもりです。
ところで1つお尋ねをします。佐々中の野球部の顧問の行為に関して、中学校に事実関係の確認・説明をお求めになった、あるいは抗議をなさったことと思います。その祭の学校側の対応は如何でしたか。参考までに、教えて下されば幸いです。
「それが見つかれば、タダでは済まない、教員とののっぴきならない状況が生じるということは、中学生にもなれば当然理解しているはずでしょう。それだけの覚悟をして、所持しているはずです。もし見つかれば、そこで教師と対決だという覚悟です」と記しておられますが、私の知っているタバコを吸うような中学生にそんな覚悟をした子供はいません。
というより、タバコを吸っているような子供は、そんなにすっきりと自分の気持ちに整理がつけられるような精神状態にはありません。だからこそ、タバコみたいなもの吸っているのです。吸いたくて吸っているわけではありません。
例えば、2歳から塾にやらされていた子供がいます。彼は現在中学1年生ですが、2歳の頃のことを覚えています。塾に行って、そこで過ごすイヤな気分を覚えていると言います。
また、幼稚園の頃から塾にやらされていた子供がいました。その塾の入り口の前で仰向けになって寝転び、いやだいやだと手足をばたつかせ泣き喚いていたことをはっきりと覚えていました。
好きでもないのに、幼稚園から中学1年生までピアノ教室に通わされていた男の子がいました。
中学生になった彼らは、勉強をやりたくてもできずに苦しんでいますし、いました。彼らは、意識下で「勉強なんて嫌いだ。絶対やるもんか」と強く思っているように私には思われます。しかし、彼ら自身はそのことに気がついていません。本当の自分の気持ちはそこにあるのにそれに気付けず、もう一つの勉強しなければという気持ちが自分の本当の気持ちだと思っています。
けれども、彼らは、やはり本当の自分の気持ちにコントロールされています。勉強したくてもできない。こんな気持ちでいることがどんなに辛いことか苦しいことか。残念ながら、こんな彼らの胸のうちを理解してやれる親や教員は私の知る限り多くありません。
彼らは、勉強しないから宿題しないからといって怒鳴りつけられ、叱られ、殴られるうちに無能感に襲われ、自信をなくし、自暴自棄になっていきます。中には規則を破り、法を犯すような道へと迷い込んでいくことこそが自分を輝かすことだと思い込んでいく者もいるのです。
このような子供たちの人間性を回復するのは並大抵なことではありません。犯罪を犯した子供が魂の自立をしていくのは容易なことではありません。
小袋さんの「当然のこと」は、そのような生徒は排除されて仕方のない存在であるというふうに読み取れます。日本の学校教育は、無数の子供を切り捨てているだけではなく、その切り捨ての上に学校教育が成り立っています。「学校はどうなるでしょうか」という小袋さんのことばに、よく表れています。
そのことを裏付けるのが年間10万人という高校中退者の数です。
「タバコを所持していたのがそんなに許せませんか?」という言葉は、本気で生徒と向き合おうとしている学校の教員からは出てこないだろう言葉です。
教員もラクがしたいのです。タバコを、見て見ぬふりをすれば、その点で生徒と向き合うことを避けられます。または、「タバコかあ。許せないというわけでもないんだけどな。」というような「指導」をしてそれで済ませれば、少なくとも生徒との「摩擦」は避けられるでしょう。その結果、その生徒はどうなるでしょうか。そしてその学校はどうなるでしょうか。
生徒と本気で向き合うことを避ける教員を、私は、誠実な教員だとは考えません。そして教員に、本気で生徒と向き合う気力を失わせる原因がどこかにあるとしたら、それは何でしょうか。
タバコを所持するということは、例えばマンガ本を持ってきて取り上げられる、ということとは違うのです。それが見つかれば、タダでは済まない、教員とののっぴきならない状況が生じるということは、中学生にもなれば当然理解しているはずでしょう。それだけの覚悟をして、所持しているはずです。もし見つかれば、そこで教師と対決だという覚悟です。
そして教員が、他に喫煙している生徒の有無を聞き出そうとするのも、これもまた当然です。私でもそうします。それが「精神的虐待」ですか。
体罰に関しては、調査報告書を読んでいるわけではありませんので、ここでは述べません。
「その認識が~何をかいわんや」に関しては、普段の状況からはわからないこともある、と言っておきます。そういう批判(そういう仮説からの私の擁護も)は、結果論でしかありません。だから「お気の毒」なのです。
「自殺を余儀【よぎ】なくさせるほどの「生活指導」って、何なのでしょう」という文および文脈から、私は「教員=悪」という図式を読み取りました。峰野さんは、そういうことは書いておられないと記しておられますが、文章は書き手の意図とは独立した存在ですので、読み手には別な受け取り方をされる可能性があるのです。これは、世界に存在するすべての文章について当てはまることであることを申し添えます。
少年が自殺したという事実自体は、大変痛ましいことだと思います。そこから汲み取るべき教訓もありますし、その教訓を生かしたいと強く思います。但し、私はその少年を、「何故、中高生の自殺がとまらないのか、自らの命を犠牲にしてこの子が教えてくれてい」るとは考えておりません。「ペイフォワード」の少年とは全然違うと思っています。
なお、私が述べているのはあくまでこの少年のことであって、他の自殺した中高生については一切触れていないことにもご留意ください。
ところが、長崎市教育委員会は、その生徒の死を「転落死亡事故」と県教委に報告していたこと。
さらに、遺族の求めで実施した市教委の調査では、担任教諭の生徒に対する体罰が発覚しているようだということ。
また、遺族は、担任が喫煙した友人の名前を聞き出そうとするなど、精神的虐待行為があり追い詰められたなどとして再度の調査を要望していること。
それらの事実を踏まえて、子供たちが自らの命をかけて、私たちの社会がおかしいとサインを送っていますよと問題を提起したものです。
小袋さんのご質問にお答えするとともに反論させていただきます。
先ず、「規則を破った子供に対し、教員は何をしてもいいのでしょうか?」と私が記したのは、長崎市教委の調査で担任教諭による体罰が発覚している点。
また、精神的虐待行為があったと遺族が訴えている点。
それに、佐々中の野球部顧問が持ってきてはいけないとされていたお菓子を生徒が持ってきたことで暴力を振るったことを踏まえたものです。よくお読みいただければ、そのような文脈になっていることがお分かりいただけるはずです。
次に「なぜこの話を持ち出されたのかが疑問です」と佐々中の暴力事件を引いたことを「教員=悪」という図式を補強するための例として書いたのではないかと見ておられるようです。
もう1度「サイン」なり「それでは、子供の気持ちは」をよくお読みいただきたいと存じます。私は、教員が悪いとか小島中の担任教諭が悪いとかどこにも記しておりません。
「サイン」及び「それでは、子供の気持ちは」は、長崎県で子供による殺人(自殺を含めて)が起こるたびに、どこそこの教育長・学校長によって、このような痛ましい事件が再び起きないように「命の教育」を徹底したいというようなコメントが発表されます。学校からの保護者向けの文書で、いじめをなくそうとか、思いやりのある心を育てようとか言っているのをよく目にします。その筋の専門家の講演会なども盛んに行われています。
しかし、その学校現場で教員による子供たちへの暴力が日常的に振るわれているのです。その矛盾、おかしさを訴えるために記したものです。
「底知れぬ不安」で「小島中学校の先生は、お気の毒です。教員として当然のことをしたまでなのに、こんな結果にされてしまって」と述べておられますが、1人の生徒が命を落とした事実を厳粛に受け止めるべきではないでしょうか。
その担任に「もしも過失があるとしたなら、「ストレス耐性の極端に弱い生徒が存在する。そして目の前の生徒は、そういった生徒の1人かも知れない」という認識を、その時に持たなかったとうことでしょうか」とも記しておられます。だが、仮にその子供が「ストレス耐性の極端に弱い生徒」だったとするならば、教員として、当然そのことを踏まえた接し方を常日頃から心がけて然るべきです。その認識がなかったとすれば、何をかいわんやです。
「教員として当然のことをした」とありますが、いったいどのような当然のことがなされたのか、担任がその子に何を言い、何をしたのかがつまびらかにされなければなりません。
生徒が規則を破ったとき、わるいことをしたとき、先生が厳しく生徒に向き合うのは当然です。しかし、厳しく向き合うというのは、決して体罰や精神的虐待を与えることではないはずです。
小袋さんが「小島中学校の先生は、お気の毒です。教員として当然のことをしたまでなのに」とどうしてもおっしゃるのであれば、13、14歳の少年に、まだ、この美しい星に生まれて13、14年しか経っていない少年に、自ら命を絶たせた現実をどう説明するのでしょう。
子供のやったことを咎める前に、子供の話をゆっくりと聞いてやるような社会であってほしいと私は願っています。
生徒の気持ちを考えない教員なら、悩んだり不安に思ったりすることもないでしょうね。
命の尊さ、かけがえのなさ、絶対に自殺してはならないということについて、先生方に、教員として、親として、本音で、自分の言葉で生徒にお話しして頂くようにお願いしました。その祭、以下のことには必ず触れてもらうようにお話ししました。
・命はかけがえのないものであること、1度失うと取り返しがつかないものであること。
・命は自分一人だけのものではないこと。
・親にとって1番大事なものは子どもの命であること。
・どんな辛いことがあったとしても、それで死ぬ必要はないこと。
・とても辛い状況があるなら、そこから逃げてもいいこと。違う道はいくらでもあること。
・どんなに辛いことがあるとしても、長い人生から見ればほんの短い時間でしかないこと。
・人生には、辛いことばかりではなく、たくさんの喜びや楽しいことがあること。
・何かあったら、1人で悩まないこと、誰かに相談すること。
校長に指示されてやっているわけではありません。何と言われようが、私たち現場の教員は私たちにできることを真剣に、一生懸命にやるだけです。
佐々中の顧問の行為に対して、私に弁護させようとお考えでしょうか。私にはその気はありません。
それよりも、なぜこの話を持ち出されたのかが疑問です。私には、「サイン」本文から読みとれる「自殺=教員が追いつめたことが原因」という図式、簡単に言えば「教員=悪」という図式を補強するための例として書いておられるのではないかと思われます。
その中の野球部の1,2年生の20人ほどが部活中に、そのことで顧問に平手で顔を殴られました。反動をつけて思いっきり。
規則を破った子供に対し、教員は何をしてもいいのでしょうか?
学校の中で、教員は子供に対し絶対的な権力者です。小袋さんは、教員の気持ちばかりを述べておられますが、絶対的な権力者に向かう子供の気持ちをお考えになろうとは思われませんか?
耐性の弱い子供が、すぐ殴る屈強な大人の前に立たせられたときの気持ちを想像されようとは思いませんか?
自殺した子供には、あんな風に死ぬのは「逃げ」でしかない卑怯だとせめておられながら、ご自分のクラスでは「逃げていいんだよ」と言われたとのこと。タバコを所持していたのがそんなに許せませんか?
いずれにせよ、現場の教員は一生懸命なのです。学校を、教員をターゲットにして責めていれば、それはとても簡単な「犯人探し」の結論となります。責められる方の立場としては、たまったものではありません。
私は自分の政治的信条を生徒に言うことはありません。それは言いませんが、あの時、当時教えていたクラスではこう言いました。「逃げていいんだよ。死ぬことはないんだ。あの先生は、退職してしまえばよかったんだ。辛い、耐えきれないというなら、逃げればいい。違う道はいくらでもある。そちらで生きていけばいい。そして、人生を楽しめばいい。人生には辛いことも多いけれど、楽しいことも本当に多いんだぞ。何があろうとも、死ぬな」と。
死者を批判することをタブー視する傾向が強いこの国では、こういった言葉は、それこそ非難ごうごうとなりそうです。しかし、私はあえて言いたい。タバコの所持が見つかったなら、教員に厳しく指導されるのは当たり前でしょう。それならそれで、自分のやったことの責任をしっかりと取るべきです。あんな風に死ぬのは、「逃げ」でしかない。卑怯です。遺された教員は、一生消えない傷を負うことになる。そして一方的に非難される存在になる。そんな理不尽が、あっていいものでしょうか。
小島中学校の先生は、お気の毒です。教員として当然のことをしたまでなのに、こんな結果にされてしまって。あの事件のそもそもの発端は、何でしたか。それについてはどうお考えなのでしょう。一体、どこの教員が生徒を極限まで追いつめようと意図して動くでしょうか。問題を、その先生の「指導」にあるとお考えならば、私は「それは違うと思います」と言います。