久しぶりの雨降り。紫陽花が色づき始めている。手や肩が痛くなるまで、事務仕事をしていた。
ふと、「渇く」という言葉を思い出した。そういえばそういう感覚が最近はない。聖書の「サマリアの女」を読み直した。サマリア人の女は5回結婚し、今は夫といえない男と暮らしている。女は普通は水を汲みに来る時間ではない昼ごろ水を汲みに来て、イエスに声をかけられる。ユダヤ人がサマリア人に声をかけるということはない。サマリアの女にイエスは「私の水は渇かない」という。
この話は「我-それ」の関係は、それは交換可能な存在。仕事でも結婚でも自分にとって価値あるものを愛するために価値あるものと交換していく。しかし「我―汝」の関係は交換不能な存在として愛する人格的な愛の交わり という。本当の愛を求める時に「渇き」が起こると言う。
このサマリアの女を読んだときは、ショックだった。価値あるものを求めたというよりは、自分が価値を置くものを求め続けた というのか。妥協しなかった というのか。なぜ、今渇かないのだろうか?交換不能な存在として人を愛しているからだろうか。
なかなか意味深い愛の話だ。
ふと、「渇く」という言葉を思い出した。そういえばそういう感覚が最近はない。聖書の「サマリアの女」を読み直した。サマリア人の女は5回結婚し、今は夫といえない男と暮らしている。女は普通は水を汲みに来る時間ではない昼ごろ水を汲みに来て、イエスに声をかけられる。ユダヤ人がサマリア人に声をかけるということはない。サマリアの女にイエスは「私の水は渇かない」という。
この話は「我-それ」の関係は、それは交換可能な存在。仕事でも結婚でも自分にとって価値あるものを愛するために価値あるものと交換していく。しかし「我―汝」の関係は交換不能な存在として愛する人格的な愛の交わり という。本当の愛を求める時に「渇き」が起こると言う。
このサマリアの女を読んだときは、ショックだった。価値あるものを求めたというよりは、自分が価値を置くものを求め続けた というのか。妥協しなかった というのか。なぜ、今渇かないのだろうか?交換不能な存在として人を愛しているからだろうか。
なかなか意味深い愛の話だ。
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