1年の歳月が流れても、ウクライナ情勢は長期化するばかりのようです。ウクライナの人々が少しでも安心して暮らしていけるように毎朝、神さまにお祈りをしていますが、戦火が止む気配はなく、ひどくなるばかりです。初めのころは、なぜこの侵略が止められないのか、だれかゴルゴ13を雇ってと思ったものです。兵士でないウクライナの人たちが、けなげに自分たちにできることは普通の生活を守っていくことですと話していました。私たち日本人はそのようなことを言えるのでしょうか。いつもまでも平和な島国でいられるわけでは無いこの頃ですね。
祖父母は関東大震災に浅草で遭い、浅草寺の池の飛び込んでじっとしていたので、火災から逃れられたといいます。それから、田舎が茨城でしたので、祖父母は父と弟の二人を背負って国道6号を歩いたといいます。家も家財道具もすべてが火の海に消えたということでした。そんな地震の話は、毎晩のように子供のころ祖母から聞かされました。そして、戦争も都内で遭ったいいます。
屋根の上に登って父たちは焼夷弾が降っているのを見ていたといいます。私が子供のころ家の玄関の横に防空壕の入り口だったというところがありました。食べるものはなにもなくて、タンポポのの葉をたべたとかでした。その戦争の話も地震の話と同じように祖母から聞かされました。ある意味では祖母の話を聞いていてよかったと思うのです。
そして、祖父母も父も亡くなってから、叔父が戦死ではなく軍隊の訓練中に自死したという話を母から聞きました。私の家の仏壇は立派でしたが、祖父母の家具は少なく、その代わりに祖父は庭に花を絶やすことなく、祖母はそれを家の中にいつもか飾っていました。
地震と戦争が残したもの・・・。今の私の暮らしの価値観として残っています。
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