昨日、宮城松島の牡蠣が届いた。生で食べらそうな新鮮なふっくらした牡蠣だった。出かけて忙しかったので、お鍋にしてしまった。絶品のレシピが付いていたので、今日はそれに従ってバルサミコ酢を使ったソテーにしてみた。絶品だ!とまた自画自賛。午前中にマッサージに行ってきたので身体のコンディションもいい。見るTVもないので、賛美歌を聞いている。また、この季節がきてしまった。
天草の隠れキリスタンの資料を見てから、私は踏み絵を踏むだろうか?キリスト像やマリア像を差し出すだろうか?と考えてみた。きっと踏み絵も踏むだろうし、キリスト像もマリア像も差し出すだろう。それでも神は許してくれるだろう という安易な考えかもしれない。おそらく、キリスト教がどのような教えかがわからないので、踏み絵や異物を差し出させたのでないか と思った。神は私の心にともにおられる というのがキリスト教的な考えだと思う。祈ることが出来るのだ。人はずる賢い。だから、許される理由を考える。これなら神さまも許してくださるだろう と。そのずるささえも許してくださるような気がする。愛とは踏み絵を踏もうがキリスト像を捨てようが、それとは別のところの生き続けるもののような気がする。
うつくしいオルゴールのクリスマスソングが流れている。かすかにストックの香りが漂ってくる。ストックの花を抱えて急いで家に帰ったときの幸せの香りだ。土曜日の静かな夜。このときの豊かさに感謝。
天草の隠れキリスタンの資料を見てから、私は踏み絵を踏むだろうか?キリスト像やマリア像を差し出すだろうか?と考えてみた。きっと踏み絵も踏むだろうし、キリスト像もマリア像も差し出すだろう。それでも神は許してくれるだろう という安易な考えかもしれない。おそらく、キリスト教がどのような教えかがわからないので、踏み絵や異物を差し出させたのでないか と思った。神は私の心にともにおられる というのがキリスト教的な考えだと思う。祈ることが出来るのだ。人はずる賢い。だから、許される理由を考える。これなら神さまも許してくださるだろう と。そのずるささえも許してくださるような気がする。愛とは踏み絵を踏もうがキリスト像を捨てようが、それとは別のところの生き続けるもののような気がする。
うつくしいオルゴールのクリスマスソングが流れている。かすかにストックの香りが漂ってくる。ストックの花を抱えて急いで家に帰ったときの幸せの香りだ。土曜日の静かな夜。このときの豊かさに感謝。