太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

オンナの鯉の滝のぼり

2020-10-27 13:57:14 | 本とか
林真理子氏の作品に「東京の女性(ひと)」という短編がある。

等身大の女性を、林真理子氏はさらっと描く。
ほんとはこうなんでしょ、というのを、ぺらりとめくって見せる。
向田邦子さんほど辛辣ではなく、倉本聰氏ほど苦しくならないにしろ(『北の国から』は苦しくて見ていられない)
できれば見て見ぬふりしておきたかったところを、見せられてしまう。
「東京の女性」のあらすじはこうだ。

東京で編集の仕事をしている主人公の女性は、田舎で貧しく育った。
マスコミで働く、育ちのいい男性と婚約し、結婚までの仮の住まいとして
あるお屋敷町の未亡人の家に間借りすることになった。
60歳の未亡人と主人公は一気に仲良くなり
東京のお屋敷町に住み、上品な言葉遣いをしている自分に酔うのだが、
その未亡人に「女」を見てしまってから、ギクシャクとしてくる。


あー・・・・わかる。
私も二十代の時、同じ思いをしたことがあった。


夜間のインテリアコーディネーターの学校に通っていたときにグループ活動があって、
グループ仲間の、50代の女性Mさん(40代だったかもしれない)の家に集まったことがある。

Mさんはマンションに独り暮らしで、東京に息子さんがいるらしい。
私たちのグループには、30代前半の男性(独身)が含まれている。
家に通されたとき、寝室のドアが少しだけ開いていて、壁に掛けてある、フリルたっぷりの、 白いネグリジェ が見えた。

30代男性(独身)がターゲットなのは明らかだと思うのは、考えすぎだろうか。
でも部屋の中は完璧に片づけられており、うっかり寝室のドアだけが半端に開いていたとは思えない。

わざとそれが見えるように、ドアをあけておいたMさんが、たまらなくなまなましかった。
ドアの前を何度も通って、ネグリジェを掛ける位置やドアの開け具合を調節しているMさんを想像してしまい、
嫌なものを見てしまったような、やるせないような気持ちになった。
女であってはいけない母親に、女を見てしまったら、きっとそういう気持ちになるかもしれない。

小説の中では、それを「いやらしい」と言い、また「なまなましい」と表現している。


当時、私は二十代だったが、今私はMさんの年齢を超えた。
小説の主人公の気持ちもよくわかるが、60歳の女性の気持ちも、今はわかってしまうのである。

いくつになっても、女を捨てたくはない。
けれど、女であることにしがみついているのも、みっともないと思う。
子供がいないので、良い母親や祖母になりきることでごまかすこともできない。
自分の年齢を受け入れることと、それに甘んじることはまた別だと思う。
それは確かだけれど、
ほうれい線やゴルゴ線、目のたるみと闘ってコツコツ顔を鍛えてみたり、
体重を元に戻そうと努力している私は、
まるで「老い」という滝を登る鯉のようだ。

女にしがみつかずに、女でいる

言葉以上に、それはなんと難しいことであろうか。
私はまだ、年齢とオンナの、いったいどのあたりで折り合いをつければいいのか皆目わからないのである。











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